熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

検索で出てくる #熊谷伊助 関連の書籍メモ

戦前義父の熊谷登久平は熊本県の人吉にある友人の画家の実家に長期滞在をして九州を満喫した。宮崎さんちの料亭と宿で、宮崎さんちの甥御さんは戦後谷中の熊谷家に結構きておられる。
http://joeandmartin.blog.fc2.com/blog-entry-94.html
「彩・才・歳-人吉球磨・絵画美術の系譜」という書籍には熊本で洋画家養成をした一人に熊谷登久平の名があるらしいですが、本が買えなくて確認してません。
その本の中に絶対に名前があるであろう海老原喜之助画伯は登久平と川端画学校に学び、パリに行く前に自画像を熊谷登久平に贈っている。
キャンパスに使いなと。
その後、関東大震災に登久平も襲われてある程度家は焼けたが海老原喜之助の自画像は義父が大事にしまっていたので焼け残り帰国した喜之助が喜んだというし、そのまま熊谷家に戦後もあったそうだけど今はなぜかない。
海老原画伯も故郷の鹿児島ではなく、熊本で戦後しばらく過ごしたが、その滞在地の一つが人吉の宮崎さんち。
今もあるのかなあ美食家だった登久平が居座り、パリ帰りの海老原画伯が長期滞在した料亭。



まあ、熊本って九州の真ん中だから拠点には最高ね。


とかまあ、高機動幻想ガン・パレードマーチの受け売りですが。



https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%9F%E5%8B%95%E5%B9%BB%E6%83%B3%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81

ガンパレといえば熊本県立美術館の学芸員さんがガンパレをご存知で、熊谷登久平も知ってらしたのはめちゃくちゃ驚いた。
ガンパレは今世紀に売れたし、賞も取っているけど熊谷登久平は絵を持っている美術館の人でも知らない場合もある。
長谷川利行のスケッチブックがあるとあちこちの美術館に連絡をしたけど、熊谷登久平が誰なのかの説明も必要だったのよ。
最近では千葉県立美術館、我が家に戦前千葉にあった洋画研究会の顧問としての新聞記事があったので問い合わせたけど、もちろん学芸員さんは熊谷登久平を知らなかったし、戦前の資料は集めてないそうでわからなかった。
まさかの遠い熊本で固有名詞が通じたのは驚きよ。
山形でも通じた。
都内はほぼ通じないね。

通じないといえば熊谷伊助。
伊助は勝海舟日記に何回も出てくるけど、大田区勝海舟記念館の専門員さんには通じなくてレファレンスできなかった。
勝海舟日記には沢山の人名が出てきますから。



教科書に載っているペリーの写真のオリジナルは英語が喋れて窓口になっていた熊谷伊助が名刺がわりに受け取ったもんやで。
早死にしたらどんなに頑張ってお金も貢いでも忘れられるものなんだなと。

伊助は横浜の造成に尽力し、横浜市から金は出さない土地は貰うをやられた年に亡くなっている。
熊谷登久平あたりの世代までは毒殺されたと伝わっていた。
今は一応病死。
新政府に協力をしたため水戸藩士に狙われてたとか斬りかかられたとかも伝承がある。
これは水戸藩とも商売をしていたからかな?

下のスクショの一枚目は岩手県の最新資料ですけど、間違ってます。
勝海舟の歌碑は本妻の実家の墓、千葉県市川市の行徳に熊谷家が建立し、千厩にある熊谷家の墓には伊助と本妻チカの名が刻まれ、横浜にある伊助血統の熊谷の墓にも勝海舟の歌碑はないです。
子がなく伊助の死後実家に帰ったチカと早世した伊助を悲しく思った熊谷家が建立した記念碑です。