熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#長谷川利行 と熊谷登久平

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義父の手記というか随筆というか「長谷川利行と私」熊谷登久平 の記述は長谷川利行関連の書籍や映像の殆どで参考にされていたり、引用されている。

亡くなってすぐに書いた文章もあれば、義父が亡くなる2年前に書かれたものもある。

が、引用している先がどこに載せるとかの連絡をくれないので全部がこの家にあるわけじゃないし、一番最近の長谷川利行展の図録にも引用はされているが、もちろん連絡はなかった。

東北方面の報道関係で義父の絵が出ることもあるらしいが、著作権を持っている遺族に連絡はない。

義父が亡くなった直後の本だと遺族の了承を得たと書いてあったりもしたけれど、今はない。

 

で、ないないづくしで義父が書いた文章の中には長谷川利行との時代のものがある。

その中で義父の母親、つまり夫の祖母をモデルに長谷川利行が描いた絵は疎開先でキャンパス代わりにしてしまい潰したとあるが、他に義父と妻を描いたのそれぞれあると書いてあった。

その妻とは義母ではなく、長谷川利行の在命時に熊谷登久平の妻の座にいた銀座サロン春の女給頭のこと。

戦後夫の母親が正妻の座を得たために、愛妾となった、横江政恵、戦前の新聞記事では美しい絹子夫人と書かれている女性だ。

大阪にあったサロン春から銀座店に移動してきたと思われる、戦前この家に泊まったり下宿をしていた元千厩町長の熊谷儀一さんは関西訛りを覚えている。

 

長谷川利行が描いた熊谷登久平の絵は義父が亡くなる前までは、この家にあったようだが、政恵の絵のことは語っていない。

それを書いた時は既に夫の母の房江との間に2人の男の子を得ていたし、この頃語る妻は房江のことなので政恵の絵について触れなかったのかも知れない。

以前も書いたが登久平が22歳下の房江を山形から連れてきた後も、登久平の下積み時代を支えた10歳上の政恵を追い出すことはなく、この家は妻妾同居となった。

役者であった30以上歳下の房江にはあまり教養がなく、女学校出を売りにしていたサロン春の女給頭の政恵はフルコースの食べ方や栄養の化学式や洋食の作り方などを房江に教えた。

義母は三味線や唄と踊りと縫い物と琴もできたので教養がなかったわけではないと思うけど、銀座でチップナンバーワンと言われていた女学校出の政恵からみたら小娘だったかもで。

 

話が逸れまくったのは毎度ですが、長谷川利行が描いた登久平の肖像画の写真のコピーは今日もダンボール箱の山の中から見つけたけど、政恵のも誰かが一緒に持っているのかな。

 

義母は熊谷家のお墓に一緒に眠らせたかったそうだけど、菩提寺のご住職にダメだと言われて同じ敷地内の違う墓標の下で眠っている政恵。

長谷川利行が描いた義父の絵と政恵の絵が一緒の場所あれば良いなと思うぐらいは、義母なら許してくれると思う。

 

つか長谷川利行が描いた義父の肖像画がどこにあるのだろう。

 

 

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政恵は大阪の実家に仕送りを続けたのに、死後遺族は金だけ受け取って遺骨は拒否。

出生届が出されていなかったのに女学校出と言っていた政恵のことが気になっている。

良い言葉遣いだったそうだし、義母がおばあちゃんはなんでも知っていると言っていた政恵。

この政恵が本名なのかもわからないけど、義父が横江政恵と墓標に書き、熊谷家の仏壇にある位牌でも裏に横江政恵と書いてある。

でも新聞記事では絹子、サロン春での源氏名は良江。

写真は同一人物と思われるけど、今熊谷一族で彼女が妻となっていた時代を知る人は熊谷儀一さんだけになってしまった。

 

大阪のサロン春のマッチ箱の写真はあるが、現物は既に誰かに買われてて、右側一番下の政恵そっくりな若い女性の源氏名は不明。

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