熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

野ざらしの詩 #長谷川利行伝 #田崎暘之介 #熊谷登久平 #田崎廣助

★★★★★ - 評価者: 中熊猫、2019/09/04

これは熊谷登久平が郷愁と愛おしさをもって語る、上野桜木のモンパルナスの長谷川利行の時代を一番かけている作品ではないだろうか

私は義父、熊谷登久平のことを調べるために、親友であった長谷川利行関係を収集して読んでいます。
だって義父は忘れられたと言っても良い画家で、長谷川利行の友人としてしか今はほとんど出てこないもの。

その中の一冊として本日「野ざらしの詩」を入手し、読みました。

長谷川利行伝はどうしても矢野文夫氏のものが多く、それらの多くは熊谷登久平と矢野文夫氏が利行亡き後に考え方の違いから、喧嘩別れをしてから書かれたので、登久平がいたはずの場面から外されていたり、登久平が亡くなったあと変に書き加えられたりもしています。

二人の喧嘩別れは実は夫は義母から聞いていましたが、その頃熊谷登久平に寄り添っていた女性は義母ではなく、先日、義父の血縁者からその話を聞くことができて、あぁ、そうだったんだなと納得できました。


長谷川利行関連は矢野氏の記録を元にした作品が多いので、義父の記述に関してはもう諦めに近く期待せずに本書を読んだのですが驚いたことに熊谷家の家業や妻の職業や収入に微妙な違いがある程度で、我が家に伝わる内容に近く書かれています。

一つは我が家にある図面が書かれたシーン。


戦前に義父が長谷川利行たちと一緒に暮らす夢を語り合った時に描いたと伝わる間取り図、平屋と二階建ての違いはありますが、その時の様子が書かれていること。

矢野文夫氏は熊谷登久平と長谷川利行の関係を薄く書く傾向があり、間取りを描いて語らった話を書いていません。

もしもあったらごめんなさい。
御教示くださると幸いです。

間取り図の話、熊谷登久平の家族と極一部の1930年代に上野の山に集った若き画家たちしか知らない話だと思っていたことが本書に出てきて驚きました。

この本が書かれたのは義父の死後で、発売されたのは1980年です。
どこでこの事を取材をされたのか、著者に聞きたくても既に故人。


もしかしたら父と同時代の画家であった父上の田崎廣助氏からお聞きになった話を練り込まれたのかしら。
話の作りも、この後に出た吉田和正氏の作品より長谷川利行の交流関係がよく書かれています。

http://tasaki-museum.org/
田崎廣助さんの作品が観られる田崎美術館は軽井沢にあります。
絵のタッチは懐かしい感じがする。


吉田和正氏の「アウトローと呼ばれた画家―評伝長谷川利行
は、吉田氏の独自の調査もあり画期的内容かもしれませんが、長谷川利行の人間関係はどうしても軽く、その後の長谷川利行ブームへの流れが読み取りにくい。

ですが、「野ざらしの詩ー長谷川利行伝」は、義父と彩美堂の書かれ方に、あれっと思う部分もあるものの、読めます。

彩美堂に関しては矢野氏の記述を元に書かれたとわかります。別名で書かれていますが。
これは義父が戦後に彩美堂が巻き込まれた贋作問題の誤解を一度解いて記事にもなっていますが、その後も矢野氏が贋作事件の元として書き続けたのでそれを採用したのだと思う。
義父や当時の若い画家で彩美堂を悪く言う人はないと思うのだけど。若手を援助しておられて、若手が集う場でもありました。

矢野氏は誤解をしておられるのではないだろうか?

戦後、彩美堂が持っていた長谷川利行作品が贋作として告発された。
彩美堂の息子さんは近所に住む熊谷登久平宅に飛び込み助けを求め、義父が調べてみると、義父部屋で長谷川利行が描いた作品や一緒に描いたものまで贋作と言われていた。
それで義父は鑑定し直しかなりの作品が本物だったと記事にはあり、義父本人もエッセイでその事を書いている。
長谷川利行は贋作が多く出る。数年前にあった展覧会にも贋作が紛れ込んでいたとの噂もある画家。
義父の死後にあった某展覧会の作品の三分の一が贋作だったとの伝説まである。
その頃に書かれた本なので、やはりその頃に矢野氏が書いた騒動についての話を参考にされたのかも知れない。
彩美堂が贋作に関わっていたのなら、旧都立美術館内にも店舗を持ててたことすら怪しくなる。
私は義父が書き残した説をとる。


本書では、義父の熊谷登久平が岩手の酒屋の息子となっているが、義父は岩手県千厩の豪商の日野屋の息子で、砂糖や絹に石油などを扱っていた。
酒屋の息子説は、義父のたしか曽祖父がタダ居酒屋と呼ばれていたエピソードから来ているのではないかと私は思う。
誰にでもタダで飲み食いさせ、田畠も税金が面倒だとタダで譲ったというタダ居酒屋の話を義父は仲間や先生に話していたようで、里見勝蔵先生も義父が亡くなった時にそのエピソードを書いていらっしゃいます。
多分それからかな。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10159.html

あと、義父の女房が金に困っている記述がありますが、彼女は東京のカフェでナンバーワンのチップをもらっていたと言われているサロン春の女給頭。
一日三百円のチップとかの女性でした。
服代に困るなど、ありえない。

彼女がサロン春に勤務していたの参考文献は浅尾丁策さんの本だけど。

そして、義父がある程度売れるようになってからは美術館の職員として働いていたと、義父の従兄談。
義父の女房を女給と書いたのは義父の死後に矢野氏が書いたのが最初だと思う。
矢野氏に書かれた時代だと、単に「女給」だとエロいサービスをしていた安いカフェが浮かんでしまう。
浅尾丁策さんが書いた「銀座のカフェ、サロン春の女マネージャー」だと藤田画伯がメニューのデザインもしていた女学校出が働くエロを売り物にしない店の職業婦人となる。
この辺の職業への書き方の違いが、矢野氏の書いたものへの違和感にもなっている。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B4%8E%E5%BA%83%E5%8A%A9
話を戻しますが、野ざらしの詩には義父の熊谷登久平が戦後も後悔し、悔やんだ場面すら書かれており不思議でもありました。
それは天城さんに義父が長谷川利行を紹介してしまう事ですが、矢野氏は自分が紹介したと述べております。

本書、入手できて本当に良かったです。

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