熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

長谷川利行さんの死後の

長谷川利行の死後の売られ方を追っていくと、親友だった熊谷登久平が戦後に絵が好きなだけで皆で過ごせた「上野桜木のモンパルナス時代を一番幸福」と、回想するのは無理ないと思う。
1930年協会の頃から長谷川利行が天城画廊に取り込まれる前までを義父は美しく語る。

長谷川利行の死後、作品を売る人たちはそれなりに儲けている。
儲けてバンバン使って死んでしまったり、うまく立ち回って生き残ってテレビドラマの主人公になったり。



#長谷川利行 さんは酒を餌に喰い物にされ、死後は貧困を添え物にされて売られたんだなぁと、死後のブーム時の図録を見て感じるし、その一端に矢野文夫氏もいたと思う。

そして義父と矢野氏は戦後は決別してるとしか思えない。
義母がそう話していたそうだし、当時を知る熊谷登久平の血縁者も矢野文夫氏との仲違いの理由を話してくれた。


熊谷登久平は今で言うリア充で、友人も多く、裕福な親が亡くなっても親戚たちからも可愛がられて生きた人だと思う。
その義父にとっては長谷川利行は親友であり絵の師匠であり、文章の師匠であり、長谷川利行が自分に描いてくれた絵は宝箱に大切にしまい込み、眺めて愛おしむ存在だ。

そして、矢野文夫氏は長谷川利行の一番であることに拘っておられたようにも感じる。

義父は長谷川利行も住めるアトリエを作る準備をして、一時行方不明になった時に探し回っていたと当時の妻の横江政恵は話していたそうだ。
アトリエ兼住居が完成したのは利行が亡くなった後で、義父は岩手から上京してくる後輩や親戚の子たちが東京に慣れるまでは面倒を見て、戦後、浅尾丁策さんが作った上野近辺の画家の会発足時は本当に楽しそうだし、画家として生きた。ただし画商とは距離を置いた。
義父の画商嫌いはお弟子さんも書いておられるし、遺族もそう語る。


逆に矢野文夫氏は画商と近しく付き合っていたようだ。また、その画業は岩手県一関市の一関博物館が高く評価しており、義父の絵は一枚も所蔵されてないが、矢野氏の作品は多く所蔵している。


一関博物館は義父の熊谷登久平の親戚や我が家が寄贈する話をしても受け付けないのが残念だ。

ただ、私は熊谷登久平が今では長谷川利行のオマケ的存在でしか残っていないのと、矢野文夫氏は長谷川利行を残した人として評価されているのを、複雑な思いで見ている。
二人とも長谷川利行と共に今も名がある。
矢野文夫氏は何度も長谷川利行に関する本を出し続けた。だから戦前に持っていた訳者としての名声も長谷川利行の名に霞んでいる。

私はノンフィクションをやっていたフリーの著作業だったから言えるけど、長谷川利行は金になる素材ではあったけど、矢野文夫氏は作家として新しい素材を見つけられなかったのだろうか?
訳者としての評価も高いのに、戦後はほとんどを長谷川利行に執着していると書いても間違いではないと思えるほどの履歴だ。

義父はそれを含めて批判して喧嘩になったらしいが、売れたものがない私には語る資格が無いように感じつつ。
オリジナルへの欲はなかったのだろうか矢野氏。
長谷川利行以上に書く欲を出させるものに出会えなかったのだろうか。







熊谷登久平は長谷川利行が亡くなったあと、長谷川利行ブランドを作る人たちのことを苦々しく思っていたと読める文章を残している。
多分それで、スケッチブックを公表しなかったのかもしれないと、ここしばらく戦後の長谷川利行に関して動きを追っていて感じる。

長谷川利行で商売をした人たちは、作品を美しくしようとしている。
だがそのために長谷川利行本人を不潔にしたり、超貧乏にしたりして貧民街だけで暮らしたようなミスリードが見られる。
そうしたくなるほど、長谷川利行は金になったんだろうなと思った。
まあ、金になっているよね。

日本のゴッホにするために、義父の熊谷登久平との喧嘩を年代をずらして本に載せ、それ以降付き合いがなかったように読ませる。
長谷川利行で儲けた人たちは互いに褒め合い、身内化している。

長谷川利行展をその輪からやらなかった人は下げられ、贋作騒動に巻き込まれて、義父のところに駆け込んだ人もいる。
義父が一緒にいた時に描いた作品まで贋作とされていることに静かな嘆きを書き残している。

その贋作騒動の長谷川利行展の図録を見たが女性と猫の絵は違和感があるけれど、多くの作品は今も長谷川利行展で巡回している。つまり本物。

このあたりは無教養で、絵が好きなだけの私には毒が強い。
昨日はその辺を調べていたので毒に当てられたようで、とても疲れてしまった。
楽しかった時代の義父たちの写真は輝いているのに。