熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

一関一高が一関中学だった頃のエピソードとか

義父の従弟の息子さんが一関一高の卒業生だったので、一関一高100周年記念の冊子の中から、#熊谷登久平 に関係があるところを送ってくださった。
義父、熊谷登久平は中央大学大正14年に卒業をしており、当時の新聞には応援団長だったと書かれている。
我が家のアルバムの中に応援団らしき写真や大正時代の学生たちの写真が残る。
それをいつのものが確認したくて中央大学に問い合わせたところ、義父たちの時代の資料は関東大震災で焼けており、部活動などの記録や卒業写真もないそうだ。
若い義父の写真は旧制中学時代のものか、大学時代のものか判断できなかったので、旧制一関中学の写真を見つけて頂けたことで中学時代のものではないとだけは言っても良いのかしら。

当時の美術部の話も送って頂けて、結構嬉しい。

あと今日は、昨日だけど、長谷川利行の贋作騒動の時の日本橋三越のパンフレットを観ることができ、その中の多くが今も長谷川利行展で展示されていることを確認できた。
義父が偽物ではなく、多くは義父と一緒にいた時に描かれたものだとメディアで書き残しているのに、なぜか偽物が展示されていたとだけ、矢野文夫さんは書き残している。

義父と矢野氏が長谷川利行さんへの考え方でぶつかったというのは、熊谷登久平宅に下宿をしていた方が記憶をしておられた。
義父の葬式の芳名帳には矢野氏の名はあるが、息子である夫の記憶には矢野氏との交流はなく、他の画家さんたちとの交流は記憶している。

また、友人画家の妻の絵となっていた、義父の内縁の妻に似ている女性の絵の名が昭和50年代には題名が変わっていた。
矢野氏が戦後熊谷登久平と交流がなく、近所の人たちが思っていたように内縁の妻が本妻で、義母が妾と思い込み、葬式の時に義母が本妻だったと知ったのならとか色々と想像をしてしまうが、もう当人たちが亡くなっているので、何もわからない。

https://twitter.com/yanakakumagai/status/1168556636895465473?s=21