熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

文人としての長谷川利行 

太平洋美術会の松本先生が、曽祖父様が発行していた大正時代の雑誌、文光堂『秀才文壇』の大正10年の号から次々と長谷川年行と名乗っていた長谷川利行の情報を発掘しておられる。
私の手元にある資料の中には「秀才文壇」での長谷川利行の記述はなく、長谷川利行の本を出しおられる定年退職をされた美術の学芸員さんにも問い合わせたが、調査をしていなかったとのこと。
生田蝶介氏に文才を認められて文壇に上がろうという夢を持っていた頃の長谷川利行の短歌。
母を早く亡くして、才を父に愛されて可愛がられていた利行。
しかし父親を詠んだものは少ないと言われていたのに秀才文壇には連作が載っている。
凄くはないかい。

そして上京した頃の集合写真まである。
熊谷登久平が大事にしていたスケッチブックの中に名があった戦後に宮沢賢治の研究会を立ち上げた佐藤寛や、一関出身の千葉青花、本名千葉文二の姿もある。
千葉青花は矢野文夫と一関時代から近しく、一緒に平泉案内の書籍も出している。
千葉青花と長谷川利行は同じ生田蝶介の門下として交流し、矢野文夫は千葉青花から長谷川利行を紹介されている。
この頃の長谷川利行は文壇を目指していたのだろう。
そして生田蝶介と決別するまでの数年間、文学青年として幸せな時代だったのではないだろうか。



(ワシオ・トシヒコ、利行評価に貢献した一関ゆかりの三人、「鬼才長谷川利行と二人 熊谷登久平と・矢野茫土、一関ゆかりの画家 生誕百年、一関博物館発行、平成13年9月22日)

https://twitter.com/taiheiyou_1902/status/1309346643913838592?s=21

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