熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

熊谷登久平のふるさと、千厩の血を引く新聞記者さん

お父様が千厩生まれ育ちで、お祖父様が千厩に住んでいるという新聞記者さんにあった。
このブログが縁である。
千厩には今も行っているそうだ。
千厩の血をひいておられるが熊谷登久平にはさほど興味なく、長谷川利行のものが何かないか探しておられる。

その一つ、長谷川利行の写真を探しておられたが、我が家にある写真はだれがだれだか全然わからない。
今利行さんと判明している写真はほぼ矢野文夫氏が撮影したものである。
なので版権は矢野文夫氏のご遺族が管理されていると思う。
義父の熊谷登久平と矢野文夫氏は戦後に長谷川利行のことで喧嘩別れをしている。

それ以前の矢野文夫氏が執筆編纂した長谷川利行追悼本には長谷川利行との思い出の原稿を渡している。
この原稿を矢野氏が何回も転載したので、例えば森まゆみさんが書かれた長谷川利行の原稿でも、その熊谷登久平の随筆部分の著作権者が矢野文夫氏となっている。
なお、森まゆみさんの文の中で熊谷登久平は矢野文夫の後輩、下級生と書かれているが、同級生なので私は戸惑っている。
谷中に熊谷登久平の妻子が住んでいて、谷根千にも少し載ったことがあったのに、どこから矢野文夫氏の後輩となったのか一次資料が知りたいと思っている。


義父の随筆は、もう山のような孫引きの世界なので熊谷登久平に矢野文夫氏が取材し執筆した文章だと思い込んでいる人もいる。
しかも矢野氏は義父が女給のヒモやってて、その金を利行さんに渡したように書いてるし。
ヒモの時期もあったかも知れないけど、それはごくわずかな期間で義父は勘当された後も千厩の親戚や実母からこっそり援助を受けていた。

裕福な家で生まれ育ち金遣いが荒いからの話だと思う。

女給と書いたけど、彼女はエロを売りとしない関西系の女学校出の女給として人気だったらしいし、人と女を取り合うのが好きな義父が菊池寛から奪った説もある。
我が家に残る長谷川利行のスケッチブックの利行さんのメモだと浅草のカフェ時代もあったようだが、その後、銀座のカフェのサロン春のマネージャー、女給頭となっているようだ。
登久平が白日や二科展に入賞した頃は上野の美術館で働いていたそうだし、この辺も資料がない。
戦前生まれの義父の従兄に聞いた話しかないけどね。
女給が結婚して上野の美術館で働いている話は書籍で見つけたけど、彼女だという証拠もない。




矢野文夫氏が義父の葬儀に参列したとき、多くの人が驚いていたと熊谷寿郎談。