夫の同級生でアニメ制作同人仲間が撮影した『長谷川利行と熊谷登久平幻のスケッチブック展』の熊谷登久平コーナー。
会場のF9さんでは私なりに長谷川利行のコーナーと、谷中モンパルナスの中心となった太平洋美術会のコーナーと熊谷登久平コーナーとやってみました。
熊谷登久平コーナーには戦後パリ祭の朝に描いた絵と、昭和2年に長谷川利行と熊谷登久平展に出したと伝っている『家』 あと一枚『古き灯台』と絵葉書などが展示されてます。
この家なんですが、義父が晩年の随筆に書いている長谷川利行と一緒に描いた家の可能性もあるのですが、資料が見つからないので。
千厩を描いたふるさとシリーズの可能性もあるし、なんせ資料が……。
熊谷登久平の絵が長谷川利行的と評された時期のものではあります。
『家』以外は戦後義父が現地で描いたもので、これを持ち帰り谷中のアトリエで展覧会用の作品を描きました。
古き灯台はお気に入りのモチーフで今は岩手県の一関市にある大作と個展用の作品と家に飾るように描いたものなど。
↑独立美術展
↓三越の個展
↓F9で展示中の現地でささっと描いた作品。
(夫は義父の死後に独立美術協会の松島正幸氏に学び、バリベア会のメンバーとして作品展にも出展し、数年前まで義父の絵の修復もやっておりましたが、交通事故の影響で絵筆を上手く握れなくなりました)
義父はイケメンで私の推しでもありますが、夫は目元とか色々似ていて少し配列が違ったので良かったと思っております。
義父にそっくりだったら私に出会う前に狩られて喰われていたと思うので、性格似てたらタラシだし。
で、展示作品、『家』以外は戦後義父が現地で描いたもの。
義父は現地でさっと描き、それを持ち帰り谷中のアトリエで展覧会用の作品を描くのが義父の制作スタイルだったとか。
私ここで何回も書いていますが、長谷川利行が画廊に食い潰されたと感じていた義父は画廊嫌いでした。
その画廊嫌いは我が家の口伝えだけでなく、お弟子さんの手記にも残っています。
それが三越さんの美術担当さんが通われて義父を説得して三越本店で個展を開くようになると、売るための絵と独立美術協会展に出すための絵で同じテーマでも描き分けをするようになりました。
手を抜くとかではなく、客間や居間にあう感じといえば伝わるでしょうか。
売る中には大きなサイズもあるのですが、感じが違うのです。
義父と夫↑↓
↑大正時代から義父を支え続けた内縁の妻が亡くなり、仮埋葬をしたときの夫と義父。
本埋葬は義父と一緒の予定だったが菩提寺のご住職に認められず、同じ敷地内に別の墓石を建てた。
熊谷登久平宅は妻妾同居の家で、支えた女性は登久平より10歳上、夫の母親は登久平より22歳下。
女性の晩年の介護は夫の母親がやっていた。
義父は内縁の妻だった彼女の死後急速に弱っていく。
他にも愛人はいたけれど、彼女は特別だったんだなぁと。
長谷川利行が彼女を描いた絵を「私のおばあちゃん」と晩年書き残している。
↓オークションに出てた作品。
今売られている作品↓
サインが昭和初期のもの。