我が家が把握している義父で洋画家の熊谷登久平の最後のファン宅にお邪魔をして、50年前に日本橋の柳屋画廊の遺作展のパンフレットに載せた戦後の代表作の一つ『漁村』や戦前の第六回白日会に出した『小菅刑務所』などを鑑賞させて頂く。
この『小菅刑務所』で義父は白日賞を受賞し白日会会友に推挙された。昭和4年2月3日から3月19日に東京府立美術館の会場第1室36番、希望価格195円。我が家に平成まであったということは売れなかったのか?
それとも白日賞を受けたことで手放すのをやめたのか、私にはわからない。
白日会が出している『白日会展総出品目録(第1回〜第59回)で確認できる義父と交流があった有産階級の仲間たちは絵を即売しないケースが多い。
昭和4年はまだ実家からの勘当がとけておらず、母の実家や親戚たちの仕送りで(豪商の御曹司の本人からしたら)貧しい生活をしていた。
この年に二科に入選し実家の日野屋からの勘当が解け、潤沢な仕送が再開され、甘い親だと揶揄した嫉妬かと思えるような記事も残る。
小菅刑務所は関東大震災で被害を受け、1929年(昭和4年)に新庁舎が落成した。
元々、囚人たちを使って赤煉瓦を焼く作業所もあった刑務所なので、門から塀が赤煉瓦だったと当時を知る人たちは語っていた。
この頃、義父と親友の長谷川利行は荒川放水路や新しくできていく建造物をテーマにすることが多かった。共に関東大震災を経験し復興していく東京を見つめていた。義父の母校中央大学も被災し駿河台に移転する。
その駿河台のニコライ聖堂を義父は3枚描き残したのが確認できる。
我が家に残り池之端画廊さんの個展に出した作品。
1枚は第1回独立展の作品で、求められて譲った青梅美術館の収蔵庫にある。展示の予定はしばらくない。数年先までなく、その先は未定。
1枚は熊谷県の人吉にあったが消息不明。だが書籍の写真で見ることはできる。が、探しに行く予定がコロナ禍でのびて、そこに水害があり。
(私はこの頃の復興東京をテーマにした義父の作品の中で我が家にあるニコライ聖堂と大川(隅田川の永代橋と思われる)がとても好きだ)
この絵『小菅刑務所』と『漁村』を私は岩手県一関市の千厩で開かれる予定だった熊谷登久平120周年展に飾りたいと交渉して許諾を頂いていた。
残念ながらコロナ禍で岩手県での120周年展は中止となり、これからあるかはわからない。
なので、お詫びも兼ねて京都に出かけた。
観せていただけて嬉しかったのと、我が家や画商を経て義父の絵をコレクションしてくださる方に熊谷登久平の魅力を語って頂けるのは命日の良い供養になったと思う。です。
機会があればこれらを多くの人に観ていただきたい。残念ながら以前も書いたけど展覧会はとてもお金がかかり、私たち生きているうちにできたら奇跡だ。
東京では池之端画廊さんのご好意で叶ったが義父が晩年帰りたがっていた岩手県では、義母が一関市に寄贈を申し込んで断られている。夫の代でもダメだった。
今一関市が持っているのは合併した義父の故郷千厩町が持っていた作品の移管でしかない。しかも3年前は一関市に把握もされていなかった。
その一関市で熊谷登久平展ができるとなり、私はとても嬉しかった。
コロナ禍でダメになった行事は沢山あり、熊谷登久平展はその中の一つに過ぎないが、残念だ。白日賞の作品は知られてない。
絵は保管にも金がかかる。
収蔵庫は無限ではない。
長谷川利行のスケッチブックですら寄贈を断られたぐらい今美術館は飽食、もしくは予算が減り苦悩している。
寄贈だから馬鹿にされてダメなのだと助言も頂いたが、美術館が購入を考えたとして予算が通るのは集客力がある作品になるのではと……
なので今は戦前の雑誌などで評価された記録があるが、修復が必要な登久平の作品の貰い手を探している。
我が家の収蔵庫を作った50年前とは平均気温が違い、絵の劣化が進んでいる。
2作品が決まりかけていて夫とホッとしている。修復してくださるとのこと。
コロナ禍前に決まりかけていた話は、コロナ不況で消えた。
絵の調査も中断されたままだ。
価値のない熊谷登久平の絵はタダでもいらないぐらいだから億単位の金をつけお願いしろ。
ということを、何故定期的に言われるのか私には理解できない。
ここ数年、熊谷登久平は美術史的に画家ではないとかご鞭撻を頂戴することもあるので、ファンの存在にどれほど救われるか。
調べたことを書いて自慢と言われるのも、もう嫌になってきている。
義父が推しで何で悪いのか。
このサイトは夫が不本意な広告が出るのは嫌だと、お金を払って維持している。
私たちが死んで支払いが止まれば広告付きのサイトとしてブログサービスが続く間は残る。
このブログに対して私だけでなく自転車屋を馬鹿にしたコメントや、義父を良く自慢できる的なコメントもくる。
コメント欄から有益な情報も頂けるので閉じてないが、国会図書館に熊谷登久平と熊谷伊助の全ての資料があるのを知らないのか的なのは困る。
ねえわ。
↑『漁村』
↑『小菅刑務所』
熊谷登久平と長谷川利行が再生していく東京を記録していた頃の作品。この年に登久平は白日会賞を受けた。
荒川放水路の横。
熊谷登久平の親友であった長谷川利行は京都の人だったので、いつかは墓参りもしたい。
また登久平を支えた内縁の妻も京都の人だったので、命日に京都の極楽浄土をあらわす宇治の平等院で冥福を祈るのもありかなと。