思いっきり忘れられた画家で、美術年鑑に載っているのとか、企画画廊で個展したことあるのとか美術系学芸員に丁寧に聞かれたりもする熊谷登久平ですが、1931年、昭和6年の美術年鑑には長谷川利行さんが載ってますけど、義父の名は無いですね。
。゚(゚´Д`゚)゚。
が、この頃の義父は二科展入選や白日会入選などを経て白日会には審査なして展示されるようになっていますが、美術年鑑に名が無い。美術の世界は厳しいです。
紀元二千六百年奉祝美術展覧會図録 西洋画 芸艸堂 昭和15年には熊谷登久平が載ってます。
頑張ったんだね。
うちにある義父の入賞作品の記録一覧には載っていない絵がありました。
このお祝い気分の紀元二千六百年奉祝の翌年には真珠湾攻撃ですよ。翌年にはシャングリラから米軍の飛行機が飛んできます。
この頃はすでに妻帯者として新聞に載っていた熊谷登久平ですが、新聞記事の奥さんの名は絹子さん。
義父の従弟の一男さんが覚えている名は衣子さん。
戦後、昭和26年に送られたハガキのデータを送ってくださいました。
熊谷衣子になっています。
昭和26年にはすでに夫の母である房江も同居していますが、入籍したの翌年の27年で長男久が生まれる前でした。
ハガキには心臓が悪くなり、良くなるまで入院して盲腸の再手術を受けると書かれています。
20年以上連れ添った11歳年下の義父が自分より30以上若い女性を連れ込んで同居させているのだから心臓にも負担はかかるでしょう。
夫は熊谷登久平が亡くなったあと、小学校で虐められました。
また義母の房江も近所の方から妾と言われて戸籍謄本を見せ、自分が正妻だと怒ったそうですが、家を建て替えようとした時には他の家から、借地でかつてをするなとか言われて登記簿を見せたり。
登久平が政治的にも経済的にも力を持っていたから守られていた妻妾同居の家だったのかもしれません。
横江政恵の名がある位牌の写真と、義父宛の手紙の一部と戦後に財産税で困っていた華族に300万円を貸して焦げ付いた手紙を載せておきます。
平澤惣兵衛さんは義父より若い父方の叔父で、同じ中央大学に入りましたが何故かすぐに小笠原島に向かい、勘当され資金援助を絶たれたことになっていて苦労したと言っている義父は惣兵衛さんへの仕送りを活用していました。
他にも母親からの送金に母親方からの送金もあり、金が本当になかった時期はそれほど多くはないと思う。
と、苦学生だった私は義父が使っている絵の具が安物に見えなかったりするので。
しかもカフェの女給頭だった政恵と事実婚をしているし。
どう説明したら良いのだろう。
貧困にしては相部屋などに住まず、利行が訪ねてきた時にカレーライスを食べるとか不思議なんですよ。
画像は大阪道頓堀の「サロン春」のマッチラベル。あるコレクターの蒐集品です。
— やすだ書店 (@yasudashoten) February 3, 2019
やすだ書店は書籍だけでなく、様々な資料や蒐集品に対応、買取いたします。ご処分の場合はどうぞ当店へお声掛けください。
やすだ書店サイトhttps://t.co/KseHJjiHSE pic.twitter.com/hGsJ0rHf4x