年に一度、日本美術院が庭木の手入れをします。
庭への扉は普段閉められていますが、今日だけ解放されます。でも入ることはできません。
中の神社に岡倉天心らが祀られていますが、美術院の会員でもなかなか見られないそうで、たまに我が家に見させて欲しいと言ってくる方がいます。
昔は我が家も同じ敷地内だったので、木戸があり、横山大観さんがふらりと訪れて、縁側で義父とお酒を飲んだり囲碁をしていたそうです。
それを覚えていた熊谷登久平の長男の久と妻の房江も今は谷中の玉林寺の墓にいます。
横山大観ら岡倉天心の弟子たちが建てた今の日本美術院は元々芸大学長の屋敷跡で、弟子たちが買い取りましたが、全部は買えず、登記簿謄本で確認すると一部は横山大観名義で彼の死後に美術院に寄贈されるようになっていました。
登記簿謄本で確認できる美術院前の持ち主は二人、どちらも学長です。
美術院を谷中にまた建てるための資金は足りず、学長の屋敷の離れであった我が家の部分は買えませんでした。
そのため岡倉天心が上京する時に使ったと伝えられている離れの屋敷は痛む一方で、義父は元学長の養子だった方が手放した離れを買い取り、若い頃夢見たモンパルナス。
仲間で集えるアトリエにリフォームをします。
元の屋敷の間取り図と、義父が望んだ間取り図の青焼きが我が家に残っています。
が、完成したのは昭和16年。
夏に大阪の独立美術協会で講師をした義父の写真が残っていますが、夢が叶って嬉しそうです。
しかし、独立美術協会の画家たちが次々と列強の植民地に派遣され始めます。
義父は官僚だった旧制一関中学の友人の世話で国策会社東京航空計器に工員指導員として雇われ、その後、日本は列強と開戦します。
真珠湾攻撃だけではなく、オランダやイギリス、フランスなどの植民地でも戦闘を開始し、派遣された若い画家たちは戦場画家として絵筆を握りました。
義父のモンパルナス、モンマルトルへの夢は儚く、美大生たちも戦場に向かい、絵具を手に入れるにも翼賛画を描くしかない時代が訪れました。
戦後台東区となった下谷区の上野桜木に一度、浅草区に一度、モンパルナス、モンマルトル的な場ができましたが、それぞれ一年ほどで終わりました。
義父が夢見たモンパルナスは戦後、浅尾丁策さんが開いた画家たちの会 #カルチェ・バル でまた開花しはじめ、その後の厚生省官僚たちが中心となって発足した絵画同好会バリベア会で叶ったのかもしれません。
バリベア会の会誌を読むとアトリエは10人と義父とモデルさんの12人でも絵が描ける広さだったようで、夫の記憶の中でも広く。
二次会になると他の人たちも合流し宴会をしていたようです。
岩手の学生さんが上京すると客間に泊まらせて上野の精養軒でご馳走をしたそうで、とても美味しかったと、その学生さんの子の世代が岩手県の千厩にある義父の実家を守る一族に話していたとのエピソードも今年の夏に聞けました。
でも義父は長谷川利行と過ごした上野桜木のモンマルトルが一番楽しかったと回想をしています。