熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

怖い人 #山形県 #東京航空計器 #中央大学の震災前後 #長谷川利行が描いた熊谷夫妻

私のこの日記を読んで私を怖いと感じられた私の親世代がいらっしゃると知り、結構ショックだったけど、戦後17年後に生まれた新参者なので戦中派には生意気かも知れないし。

これがある、あれがあるも上から目線と読めるかも知れないとか。

私は危篤状態と峠と2ヶ月近い入院を熊谷家に嫁いでから経験し、それなら慌ててあちらこちらに熊谷登久平のことで問い合わせをし、調べている。

今年心臓の異常が見つかってからは余計に焦って行動しているから、台風のように訪れて読めるもの片っ端から読んでいく。

質問ぜめしているから不愉快な思いを人にさせているかも知れない。

 

その方は残念ながら私ではなく夫に会いたいそうだ。

でも夫は去年の落雷で心臓と腰が悪化して杖で歩いているし、無理だ。実は彼は結婚後に心臓にサルコイドーシスという病気も見つかっていて、岩手に行くのは本当に無理だ。

 

言いにくいことを言わせて申し訳無かった。

なんか空回りをしているが、私らしいなと私は私を嘲笑ってる。

 

他の方から「馬の耳に念仏」と言われた時に気がつけば良かったなと反省してる。

 

古屋の修繕もせず、本を買い、美術館に通い、岩手県宮城県の図書館をローラー作戦でまわる。

無計画ではあるし、阿婆擦れに感じられるだろう。しかも使っているお金は夫のお金だ。

そういうのも不愉快に思う人もいると思う。

 

以前夫の後輩が酔った時に私と娘をシロアリに例えたことがあったが、「ただのシロアリじゃないですか。どーして若い女にしないんですか、親子丼でもマシなの選んでくださいよ」他にもそう思う人がいるかもしれない。

 

だからさ、私は結婚したくない友人でいたいと言ったんだよね。子がうめる年齢の女性にしなさいとすごく言ったんだから。親戚に祝福される相手にしろと、古くからの友人としてあれほど言ったのに。

 

若くてかわいい史学科出身か美学か美大にすれば良かったのよ。そしたら要領よく資料探せるし頭もまだ柔らかいじゃん記憶力衰えてないじゃん。ここ、好き者なら宝の山よ。

興味ない人にはゴミ屋敷。

本家に頼んだら良いお嫁さん紹介してくださったろうに。

もったいないことを。

 

 

 

 

一応、資料がないからあったら欲しいと言われてて、ある程度見つけてるけど、未整理なもの。

 

熊谷登久平と東京航空計器関係は新聞切り抜き。岩手県千厩元町長熊谷儀一さんの証言、熊谷登久平が会社の偉い人が戦犯容疑で連れていかれたあとに、会社に残された技術と技術者で作れるものを考えて開発したのがニュースターで、東北で販売するために営業もした。

また戦時中の東京航空計器の工場に一関市の女学生たちが動員された。

彼女らの指導にあたった男性は適度にやりなさいと言ったので女学生はがっかりしたが、それが多分熊谷登久平。女学生の手記は岩手県戦後70年史。千厩の日野屋ブックセンターに在庫あり。

 

山形県と熊谷登久平の関わり。

戦前から何度も訪問して個展も開き弟子もいた。

資料は足立区立郷土博物館に預けたスクラップブック。熊谷登久平の戦前より山形県の弟子の入選記録もその中。山形の弟子の入選記事複数あり。

戦前の山形県での個展写真は谷中の熊谷家所蔵。記事はスクラップブック。

戦後の山形県での独立美術協会展は昭和30年代に一度ある。山形県山形新聞の社長の服部さんは義父の親友で、戦前から義父と遊ぶ。

山形新聞に独立美術展の記事あり、テープカットは服部社長。

熊谷登久平アトリエ跡の我が家に写真あり。

熊谷登久平が山形の女性に送ろうとして送らなかったラブレターあり。書き間違えがあるので他のハガキを送った可能性あり。

多分東京でヌードモデルをやっていた方が帰郷。その女性の山形の住所はお水系。

 

 

中央大学の失われた関東大震災前とその後の写真など。

かなりの仕送りをもらっていたために真面目な写真や成績表は実家に送っていたと思われ、谷中に残っているのは、陸上部の応援団の写真、懇親会、当時中央大学には野球部がなく他校生も混ぜての野球倶楽部の写真。

残念ながら、友人たちとの楽しいおふざけ写真しか残っていない。

中央大学の応援団長との新聞記事、慶應大学の応援団と乱闘をやり勝ったとの新聞記事もあり。

商業図画研究会を中央大学で立ち上げたとの記事もあり。

気仙沼新聞。

 

独立美術協会関係。

野球部を創設した時の記念写真やおふざけ写真。

野球部のメンバー一覧表。熊谷登久平は中学時代から野球と柔道をやっていたので野球部監督。

独立美術協会の戦前の写真多数谷中にあり。

真面目なものは多分実家へ。

 

二科展

二科展で発売した海外洋画家の作品集。

 

長谷川利行関係。

熊谷登久平の肖像画は晩年まで宝箱にあるも死後行方不明。

熊谷登久平の母の肖像画は戦中に実家に疎開させた絵や貴重品の中身が消えたために家族と喧嘩し、岩手を出て山形に疎開していた時に塗りつぶした。

のちに大いに後悔。

熊谷の母は勘当されていた時期も東京に息子を訪ねて利行にもあっているし、金を包んでいたらしい。

疎開荷物の中にあった里見勝蔵の絵は義父の母が預かり駄賃として隠し持っていたのが数年前に発見された。

義父の母は利行を息子の先生と思い込んだ節がある。

熊谷登久平の事実婚の妻のカフェ春の女給頭で横江政恵の肖像画

矢野文夫の書籍、長谷川利行の中の口絵、32番1932年の作品 女 がそうではないかと思っている。

背景の絵が気になり探し回ったが同じようなテーマの絵が数枚あった該当作はないが、似ている。

 

どなたかこの矢野文夫が匿名とした長谷川利行の友人画家の妻の正体を知りませんか。

残念ながら矢野文夫が長谷川利行を出版した時には所在場所不明。

 

この長年連れ添った二人の肖像画が同じ場所にあることを、義父が22歳下の義母房江と正式に入籍し二人の男子を成したのを、妾と立場を落として見守り続けた義父より21歳上の政恵の気持ちを思うと切に願う。

同じ墓に義母が入れようとした時に菩提寺の住職に拒否されて、同じ敷地別の墓標の下で眠る政恵へのせめてもの慰めに、同じ場所に二人の肖像画がありますように祈ります。

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