熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

図書館が開いてないから調べるのがマジ手探り過ぎて、心が色々とエラーになる

私は教養がないので、図書館と神保町の古書街を頼らないと何もできない。
エクセルがあれば、完璧な年表を生み出せるという優秀な脳内記録は持ってない。

去年、年表で悩んでいた時に兵庫県の女子が通う高校ではトップクラス、そこから首都圏の国立大に受かり卒業し研究所に勤務した人から脳内の記録では義父の年表ができないことを理解してもらえないことに結構絶望したけど、頭の良い人は壁を経験したことがないからコツコツが理解できないんだろうなとは思った。彼女は理系だし。

で、去年は熊谷登久平の年表をつくるにもズレと空白が生じることを悩んでいたが、今は図書館が想像より長く閉ざされていてアレもこれも証明できないことだらけな事に煮え詰まっている。

うちにある朝日新聞社の紙資料だと義父が偽物と言われた作品を本物だと正しく鑑定したことになっているし、義父自身が商業誌に残した随筆でも贋作騒動の時にランカイヤと揉めたことを書いてある。
この時、偽物と言われた作品は今も長谷川利行の代表作となっている。

だが、森まゆみ氏の記事だと義父が彩美堂が贋作制作に関わったこと書き残しているとなっている。
我が家にある記録では彩美堂の汚名を晴らしたことになっている。
この真逆。

長谷川利行が彩美堂に残されていた若手たちの絵を直してサインを入れたと義父が書いているが、それになるのだろうか。
利行風の絵を描いた若者が沢山いて、彼らは落選し、額縁を借りた彩美堂に作品を置き去りにした。
それを彩美堂が利行に手直しを頼みサインも書かせた所だろうか?






長谷川利行の記録を読んでいくと、新しくなればなるほど、熊谷登久平は関係者から消えていく、2年前の雑誌の長谷川利行をめぐる人たちから義父は消えて、義父がいた場所には矢野文夫氏単体、もしくは義父より10歳下のグループが入っている。

たくさん絵を描いて中堅と言われていても死後名が残るのは僅かだなと調べれば調べるほどものの哀れを感じる。
同級生だった矢野文夫の下級生にされたのも哀れだ。
もう誰も訂正を入れなくなるほど忘れられて贋作推奨をやったようにも書かれて、私なら耐え難い。
長谷川利行の贋作を制作した人は確かにいるが、熊谷登久平ではない。義父は贋作をつくるほど金に困ってないし。





年表で訂正したいものは沢山ある。

なぜか、熊谷登久平は疎開が縁で山形県によく行くようになったと岩手県の一関市の図録に書かれており、その他もそうなっているので、なぜそうなったのかを探している。
戦前の、それこそ皇紀2600年前から山形県に通っていたと我が家の資料だとなるけど、なんか何やっても無駄な気もしてきてはいる。
それの大元になったのは多分山形美術館の初代館長の資料な感じで、ご存命なので御著作片手に問い合わせたが体調が悪そうだった。
間に合わなかった。


一関市の作家が書いた熊谷登久平は銀行員の趣味で絵を描いているって感じの元ネタも一関市の義父を知る史家に問い合わせたがわからない。
義父は戦前に一関市と盛岡市でも個展を開催しているし、戦後も個展を開いているが、忘れられいる。