熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#長谷川利行 の死後の #熊谷登久平 と、 #矢野文夫 の関係 と女学生と #東京航空計器 #岩手日日新聞 #証言集戦後70年間 #千厩日野屋

f:id:TokuheiKumagai:20190824001207j:image長谷川利行が画商の天城俊彦と付き合い始めた頃のことを矢野と義父それぞれ手記に書いている。

長谷川利行を監禁するようにして絵を描かせ、利行がいじけていったと書いている義父は画商嫌いになり、画商を通じて絵を売ることを嫌がった。

長谷川利行、矢野文夫、義父、天城俊彦の集合写真の義父と矢野文夫氏の表情は暗い。

矢野文夫氏も天城俊彦のことを評価はしているようだが、どこか冷たい文を残している。矢野氏の御子息はカメラマンだそうだが、残念ながら熊谷登久平と房江夫婦と矢野氏の交流は殆どない。

義母から夫が聞いていた熊谷登久平と長谷川利行の関係と矢野氏が書く関係には違いがあるが、そんなもん、もうわかる人はいない。

出会った年も義父は大正15年5月の藤の花の季節と書き、矢野氏は昭和2年の9月と訂正を入れている。

 

これ、義父が生きていた時に訂正をしてくれたら良いじゃん。

義父は義父で矢野氏が長谷川利行について書いた記事を大事に持っていたし、やだこの複雑な男同士の関係。

 

義父が大切にしていた長谷川利行と一緒にいた頃のと言っていた謎のスケッチブックにある日付は192?年2 1928年に読めるけど、これがどういう経緯で義父の手元にあるのかももうわからない。

 

矢野氏は長谷川利行の名を残すことをライフワークにほぼした。長谷川利行との時代を「伴侶」

義父は長谷川利行を「道標」と回想する。

 

でも長谷川と熊谷は互いのことを書いてない。

複雑だわ。

だからか私の世代が長谷川利行の小説を書いてても三人の複雑な共依存関係が書ききれてない。

私が担当なら突っ込む。

あたし昔は小説の編集もやってたんですよ。あまり実績ないですが、小説の企画本は数冊出してます。

ノンフィクションと育児は金がかかりますから、やれる仕事はいくつもやってました。好きでしたし。

 

で、

 

矢野氏の深層の中の熊谷登久平の妻は政恵だ。

義父と房江との間に二人の男子が生まれたことは知っていたのに、義父の死後に書いた「長谷川利行」という書籍の中で政恵に養われていたことをハッキリと書き戦前からの女であった政恵を女房と書いてている。

これは義父が大変な時期を支えた女を妾に落とし、20歳下の房江を妻としたことへの何かしらがあるのではと勘ぐる。

長谷川利行と政恵は交流があり、政恵の肖像画も描かれていたようだが、今は行方不明だ。戦中の義父の手記に書かれているだけだ。

利行の話を夫は政恵から聞いている。

 

残念ながら今私が読める矢野文夫氏の文書で、感じられた振り回されるながらも楽しかった三人の時代の違和感は義父の女房の書き方だけだ。

この中で利行に熊谷が五円を渡すシーンの後、矢野は義父の文章を一旦切り「熊谷はカフェ勤めの女房に養われてて金はないのに五円という大金を渡している」というような事を書き足している。

義父が書いてないことを保管してあるわけだが、この頃の義父は自分より若い叔父に惣兵衛に千厩の祖父から送られている仕送りから金を融通されていた。

また実は長男の登久平に甘い実母も金を送っている。

 

一晩で三百円稼ぐ、カフェ春の女給頭だった政恵との同居はこの次の少し広い下宿からではないかと私は思っている。絵具の質が変わる。

勘当を解かれる前から旧に羽振りが良くなっていた。その頃11歳上の政恵と同棲をしたのではないか?

 

 

猫が吐いたので、ここで中断。

 

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昭和16年に熊谷登久平は独立協会会員になり、画家として歩くかと思っていたら、ちゃっかりと旧制一関中学の同級生の商工省高官の畠中大輔の推薦で、国策会社東京航空計器に嘱託として入り込み、工員の教科指導に当たる。独立美術協会展にも絵を出し、毎年絵を発表しているが、国策会社の指導員という立場を得た。

これで戦場画家としての徴用の順番は遅くなる。

 

(「鬼才 長谷川利行と二人」の年表より、年表作成者 岩手日日新聞社 編集委員長 渋谷誠)

義父を東京航空計器に滑り込ませた畠中氏は義父の手記に局長と書かれている。

仙台空襲の時に仙台鉱山局長で、鉱山局にあった義父の絵を避難させ守った人だ。

昭和16年真珠湾攻撃まえから日本は中国と戦争をしており、独立美術協会の80年記念誌を読むと、会員たちが次々と前線に送られて戦争画を描いている。太平洋戦争開戦前なのに画家が南洋などに送られて始めたのが昭和15.6年の画壇の動きだ。

(それを察したのちに元オランダ領のバタビア施政官の肩書きを持つことになる畠中氏がまだ若手画家である義父が危険な前線に出るのを止めたのかもしれない。でも事情を知る人はもういないんで、その辺も聞いといてくれたら良かったのに夫。バタビアの施政官と友達よ)

(幕末、義父の実家の熊谷家の熊谷伊助が江戸から千厩に相場や時事情勢を次々と伝えた手紙が今も残っている。熊谷伊助は幕府の札差から華麗にアメリカの商店の番頭に転向して時代の流れを乗り切った。んで、ペリーから肖像写真を名刺として受け取っている。教科書に載っているペリーの写真は熊谷家のものでした。義父は熊谷伊助を尊敬しそれらの手紙を読み漁ったようだ。それで時事ネタに敏感だったのかも知れないとか勝手に書く。でも多分畠中氏の機転かと)

 

 

 

おかげで義父の戦争画を描きたくねえよ、なら徴兵逃れという願いは叶っている。

これは反戦的なものではなく、出身地から出た偉い軍人から戦場の話を聞き、また戊辰戦争の記録もよく残る地で育った高等教育を受けたボンボンだから可能な教養のゲタばきゆえだと私は思う。

戦意高揚の絵はさらっと描いている。

素直に戦場に行きたくなかったのだと思う。

本当に要領よく戦争道具を作る企業に入って、多分現場監督をしている。

 

岩手県民の戦争体験記録が、岩手県一関市千厩の書店、日野屋本店にあった。その中に一関の女子校の生徒だった人の手記があり、東京の東京航空計器の工場に学徒動員で入ったと書いてあり、頑張るつもりで岩手から東京に向かったのに現場の管理者から「適度にやりなさい」的なことを言われてがっかりしたとあった。

https://www.iwanichi.co.jp/2017/08/15/37430/

これ義父じゃないかな。

工員の教科指導係だし。

東京航空計器の秘書室の方が探してくださった義父の就労記録でも多分その辺の仕事についている。

一関の女子校の生徒を受け入れたのは偶然なのかどうなのか、戦後の新聞の記事によると東京航空計器の会長は岩手県出身だ。

 

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http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/079/0176/0791017600110131.pdf

戦前、戦後、義父は岩手県の学生を家に下宿させて色々と世話をしたらしい。

その郷土愛が出てるエピソードかもしれない。

女の子好きだし。