今日の谷中のヒマラヤ杉
ここ数年、私は最新の美術年鑑に義父の熊谷登久平の名があるとホッとする。
画家は死後50年前後で消えるか消えないかと何かで読んだか聞いたか、上野の山の文化財研究所の物故者の名簿に名があるかとか、私は今とても気にしている。
義父のことの情報発信をし始めた頃に、熊谷登久平は画家ではないと言われたことがあり、白日会と独立美術協会で審査員もやっていたのに美學を学んだ人の定義では熊谷登久平は画家じゃないんだと驚いた。
また稚拙という評価が死後になされているのも読んだ。ついでに長谷川利行と矢野文夫と違い熊谷登久平は文章がうまいと言えないとの評価も読んだ。
私は義父の絵が好きだし、故郷の積雪の過ごし方と春がきた時の喜びを書いた文章とかも好きだ。登久平文章に四季の色があるのも好きだ。
女子高生時代に光風会の恩師が話してくれた上野の山の画家たちの青春話も好きだったから、その中の1人の熊谷登久平の絵をこんなに観られる家の嫁が私で良いのかと悩みもした。
もちろん夫が好きだしオタク仲間としても楽しいし、私が作るご飯を喜んで食べてくれるし、有難い縁だと思う。恥ずかしながら結構彼が好きだ。
義父の知り合いの先生に学べて、母方の親戚には義父の友人だった張替正次画伯と仲の良かった画家がいる。(幼い頃はお兄ちゃんと読んでいた人がもう研究所を定年退職してることのショック)
昨日、展示会先から帰宅した後に「縁が幾つもあるの不思議だよね」と夫と話をしていて、あの世で義父と先生が縁談してたんじゃないのといつもの会話をした。不思議な巡り合わせが結構ある。
そして、繰り返すが美術年鑑に名が残ってるのホッとする。自分が嫁いでから名が消えたら悲しい的な。好きだもの。
熊谷登久平についてもミーハーな付け焼き刃な私なので、結構後手になるし、図書館資料室は予約が抽選だったり時間制限だったりで、秋からの卒論シーズンは心情的に予約とるの心苦しいし。不勉強を続けている。それでも文化財研究所に登久平の資料を増やしたりしてはいる。
頑張りができないというか、「努力が嫌いなんでしょ」と言われたりするぐらい私はいくつになっても相変わらず色々下手なので、ホッとしている。それは義父の努力の結果であり、義父の死後の血縁たちの努力のおかげもである。
義父の従弟や弟たち、その配偶者たちが岩手県で企画展示を長く続けてくれてなかったら、美術年鑑から名は消えていたかもしれない。
最新号の美術年鑑表紙は義父が可愛がっていた絹谷幸二先生だし、絹谷先生は我が家に遊びに来ていた若手たちの1人だ。
ご本人にも登久平との交流を確認できた。
なので、今年の美術年鑑はとても嬉しい。
(幼かった夫の記憶の中の絹谷先生は一升瓶持ってくる学生さんだ。)