岩手県立美術館の常設展示室にある義父の熊谷登久平の絵を観て額縁を見た時に、特徴のある金属のネームプレートがあった。
木製の額縁は丁寧に磨かれていて、元は金箔をはっていたように思えた。
これは多分、上野桜木の佛雲堂の浅尾丁策さん製作の額縁だろうと、今日ご子息の空人先生に画像をみて頂いた。
やはり浅尾丁策さんの額縁で、ネームプレートもそうだった。
額縁は金箔をはってあった筈だそうだ。
https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/city/ueno_sakuragi/japanese/guide_01.html
この千厩警察署を描いた頃の義父は実家から勘当されていて貧乏で矢野文夫氏とサロン春の女給だった妻に食わせてもらっていたように書かれている文章を長谷川利行関係の本で見ることがある。
坊ちゃんだった義父が親の仕送りで中央大学と(内緒で)川端画学校に通い、大学卒業後に家業を継がない洋画家になると言って父親に勘当され多少は労働をしたのは良いが、体育会系でもあるけど倒れた。
歳上の恋人に献身的に看病され熱海の保養施設に入所する時には母親の実家や親戚たちが一斉に送金をしたと、ご存命の義父の従弟さんから聞いた。
その送金をしてくれた親戚宅にはお礼の義父の戦前の絵がある。
洋画は金がかかるし坊ちゃんだから金離れも大きかったと思うし、送金が届くまでの間は金がない時もあったのだろう。
また「オヤジに勘当され兵糧攻めされ倒れたらオフクロたちが送金が送金してくれたけどオヤジが送ってくれていた額より少なくてさ」と、登久平が書き残すわけもなく。
新聞記者に生活苦だったと答えるわな。
何が言いたいかというと、貧乏な画家のタマゴが佛雲堂の金の額縁を買えるはずはない。
なので細民層の生活はしてないと思う。
彩美堂の貸し額縁の世話にはなったろう。だから彩美堂のご主人の息子さんが長谷川理行の贋作騒ぎで大変なことになった時、矢野文夫氏たちと対立したのだと思う。
この騒動についての当時の新聞記事は公平だが、義父が亡くなってからは少しずつ彩美堂が贋作を売ったように情報は上書きされていく。