熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

富岳 熊谷登久平 十国峠ネタ 彩美堂のお嬢様。

社会保険の表紙のことばを国会図書館デジタルアーカイブで眺めていたら、戦前十国峠に連泊したエピソードがあった。

昭和9年11月29日この峠から登久平は里見勝蔵に葉書を出している。

十国峠にやって来ました。重ねはいりません峠の上の工夫●●です。朝な夕な姿を変へる富士は伊達者です。熱海と箱根の中頃です。都を離れての山の日も中々味があります。奥様●●様によろしく。御健康を祈ります。』

他にも泊まりがけで富士山を描き続けたと言ってる新聞記事があったので、登久平には大切な記憶なんだろうな。

 

結核が治っているとはいえ、冬の十国峠に一月泊まるというのが、描きたかったんだろうけど留守番していた京子さんは心配していたろう。

 

 

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『富岳
富士山は葛飾北斉に描かれ、近くは林武によって有名だ。

戦前のことだが、熱海、十国峠の東豆鉄道の専用道路の番小屋に、寝泊りして、十二月一日から三十日まで、まる一ヶ月富士に挑んだ。朝四時半、朝日をうける富士、寸時もたたないうちに何度も色をかへる。そのたびに画布をかへる。もう八時すぎたら夕方まで富士は光輝を発揮しない。

野風呂に入つてゐると、星空の下にくつきりと富士の姿がたつてゐる。

何枚も描いたが、女のような富士山だった。三十日目、私は真赤に富士を塗つてゐた。

この富士を仙台の三越の個展にならべたら、旧第二高等学校の国漢の教授の粟津先生が、おいでになられ、「熊谷さんあんた富士の剛さを描きましたね」と大変ほめられたことがあった。

三十日目、真赤に富士を塗ったとき、私の心をすぎた満足感、これは粟津先生が話されたこと同じだと思ふのだった。』

 

↓本家の日野屋の熊谷美術館にある富士山の絵。

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↓大気新聞社の社主の息子さんの奥さんに贈った富士山の絵。
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本家の向かいの日野屋金物店に贈った富士山の絵。↓

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ヤフオクで落札し損ねた富士山の絵。

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夫につきそい台東区役所へ。

ランチを食す。

区役所前の彩美堂にて土肥のお嬢様(義母と義父の呼び方らしい)と歓談。夫は熊谷画伯のお坊ちゃん扱いになる。

義父の額縁の話題や二代目が長谷川利行の絵を彩美堂が手放した時の話など。

数年前まで戦前の彩美堂で世話になったという光風会の画家さんがいらしたとか。

 

 

 

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