義父が1ヶ月滞在したという十国峠。以前から確認したいと思っていたが一緒に行くはずだった夫は心臓に面倒なものが見つかり、もう遠出はできない。(プロポーズの時に老後は日本中の鉄道乗り倒そう。新婚旅行は寝台列車で出雲って言ってたのに)
私は調べ物や観光で熱海までいっても十国峠まではバスが少ないのでなかなか行けず、今回15歳の時からの友人に付き合ってもらって初めて登った。
十国峠とはWikiによると、函南町と熱海市の境にあり、十国五島(伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・安房・上総・下総・武蔵・信濃、大島・新島・神津島・三宅島・利島)を展望できるといわれる標高766 mの日金山の山頂、展望の良い場所で東京も見える。
私の目では確認できなかったが今日はスカイツリーも見えていたそうだ。高層ビル群は目視出来た。
残念ながら十国峠から眺める富士山方面は雲があり、雲が動くのを待ったが風が強く肌寒く、熱海へ向かうバスの都合もあり富士山は諦めて下山し、熱海駅で夫に頼まれていた駅弁を購入して帰宅。
昭和9年の冬、ここでよい富士山を見たくて登久平たちは頑張り、1月ほど滞在した書き残している。ここから里見勝蔵宛に出したハガキには服の重ね着がなくても工夫次第と書いてるけど、絶対に寒かったと思う。
去年の展示用に書いたキャプション。
「昭和9年11月29日熱海-箱根自動車道路」の記念スタンプが残る里見勝蔵宛て富士山の絵葉書に登久平は『十国峠にやって来ました。重ねはいりません峠の上の工夫●●です。朝な夕な姿を変へる富士は伊達者です。熱海と箱根の中頃です。都を離れての山の日も中々味があります。奥様●●様によろしく。御健康を祈ります。』と書いた。日本初の有料道路、熱海-箱根自動車道路は昭和7年に開通。
その景勝地からの熱海を登久平は描く。」
戦前のことだが、熱海、十国峠の東豆鉄道の専用道路の番小屋に、寝泊りして、十二月一日から三十日まで、まる一ヶ月富士に挑んだ。朝四時半、朝日をうける富士、寸時もたたないうちに何度も色をかへる。そのたびに画布をかへる。もう八時すぎたら夕方まで富士は光輝を発揮しない。
野風呂に入つてゐると、星空の下にくつきりと富士の姿がたつてゐる。
何枚も描いたが、女のような富士山だった。三十日目、私は真赤に富士を塗つてゐた。
この富士を仙台の三越の個展にならべたら、旧第二高等学校の国漢の教授の粟津先生が、おいでになられ、「熊谷さんあんた富士の剛さを描きましたね」と大変ほめられたことがあった。
三十日目、真赤に富士を塗ったとき、私の心をすぎた満足感、これは粟津先生が話されたこと同じだと思ふのだった。(社会保険19(1)(210)出版年月日1968-01
全国社会保険協会連合会、)より引用』