熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

高御座二回目

物書き現役の友人と二回目の高御座。
出雲と大和展を観た後は焼肉ランチ。
山形牛の若い雌を売りにした店で肉が甘い。

ランチをしながら戦前の洋行、芸術の才能があり留学した若者たちの中で花開いたのはどれぐらいだろうと話した。
彼女が調べている人は成功して、戦中少し苦労をして戦後も花開いたまま生きた。
自殺した人もいる中で戦後も輝いた人たちは多いようで少ない。

美学で国費留学をした外縁は戦後帰国してから苦労して埋没している。

まあ渡航に憧れた人は沢山いた。

熊谷登久平は親と周囲が渡仏の費用を工面し、本人も個展を開き絵を売っているが、当時の仏蘭西滞在経験のある画家たちが壮行会を開催したときの記録も残っている。
が、病気になり渡航できなかったようだ。
壮行会の記録は今足立区立郷土博物館にあるが、若手画家を先輩たちが育てようとした空気が伝わる資料だと思う。
この頃、長谷川利行渡航への夢を語っていたようだがよく分からない。
渡航が叶わなくなった義父は熊本の人吉の料亭を兼ねた旅館に滞在して、あちこちで描いたり指導していたようだけど記録が掲載されているらしい本は今高くて買えない。

友人とこの頃に芸術をやっていた人の中に下層階級はいたのだろうかと話した。
美術音楽その他、芸術には綺麗事を言っても金はかかる。

友人の家系にも戦前に画家になった人がいたが戦時にシンガポールに送られた。
熊谷登久平や同人仲間の野口良一呂は国策企業に入り戦争画家逃れに成功している。
でも彼女の家でも前線に送られたことに驚いた。

彼女の家は旗本だし、ある企業のトップだし親の職業と学歴である程度の経済力があったこともわかる。
それでも戦争画家という召集を受けたんだ。
彼女の親戚も戦後埋もれたようだ。
戦争画家のレッテルを貼られた人たちが戦後糾弾された時期がある、この頃の美術雑誌の戦争画論争は結構きつい。でも召集逃れをした画家も肩身が狭そうだ。



ある芸術分野の研究者として日本一だった彼女のお父様は四男で、お父様のことが書かれた書籍で長男は二間を与えられ四男は三畳間という記述があったから大変だったのかしらなどと話してたら「専門のねえやはいたようよ」と。
このねえやとは子守。
四男で三畳間に押し込まれてもねえやはつく。
ねえやは団塊世代のお兄様にもいたそうだ。
お兄様のねえやさんは彼女のお母様が亡くなった時に、ねえや時代に受けられた習い事や良い環境への感謝の手紙を送ってくださったとか。

そういえば私たちの世代のN君宅は成人後もお手伝いさんがいたわねと話して、ねえやが中流階級にいたのはいつ頃までだろうとなった。
還暦になった今夫にもねえやがついていたし、夫の幼馴染みにもねえやがいた。

専業主婦には夫のフォローと家の采配という仕事があり、子育てと家事は使用人がするものだった時代があった。
いつからパートと育児と家事と夫の世話を高学歴の妻が担うようになったんだろうねと。
「郊外の団地が最先端だった時代に家電が一気に普及して、冷蔵庫、洗濯機、ガス風呂などが入った頃かしら。その頃は家電がやってくれるからお手伝いさんがいないエリート層ができたのかしら」

以下貧乏人の高度成長期の子育て。

私は父が外で作った子だったから、母子家庭時代の母は働く必要があった。当時母が働いた工場には託児所があり、そこに預けられたことがある。
その後、父と母は結婚して私の喘息のために空気が良い明石の田舎に引越した。
そしたら父は生家に住む息子たちと私たちの間で悩み血を吐いて働けなくなった。

母はまた働くことになり、生まれたばかりの弟を連れて働きに出た。
兵庫県加古川あたりの日本ハム工場には正規の保育園があった。
給食があり、従業員の送迎バスが加古川から明石まで走っていた。
加古川の紡績工場にも保育園があり、高校がある紡績工場もあって、うちの短大には紡績工場で働きながら卒業するコースもあった。

と、その頃の貧乏人を知らない友人に説明した。


など話が錯綜しながら戦前の耽美な芸術家たちの話しに戻り、互いのスマホの中のとっておきを見せあった。



そのあと、友人と別れて、ひるねこbooksさんに寄り、急坂のねんねこやさんで猫を愛でた。

根津の焼き菓子の美味しい店が2月10日で閉店とのこと。
都電サブレを土産に買うこともあったので、残念。