熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

阪神淡路大震災

たくさん情報が飛び込んでくる昨日だったので、なくなってしまった多くのものを再確認する日だった。

友人が国立東京博物館に付き合ってくれたので随分とガスは抜けたが私の神戸市の行動範囲が主に三宮から須磨だったので色々と。

父は鷹取にも仕事先があり、鷹取商店街にもよく行った。出口にあった高橋病院が焼けなかったのは良かったと思う。高橋病院に父が長期入院をしたのが小学3年生の夏で弟は親戚宅に預けられ、母が付き添いで泊まっていたので私も鷹取の高橋病院から明石市魚住の魚住小学校まで電車通っていた時期がある。

同じ頃高橋病院には変なおっちゃんがいて母に訴えたが我慢しなさいだったな。
そのあと抵抗した他の女の子が怒ったおっちゃんに屋上から投げ落とされ重体となった。隣の家の屋根に引っかかって助かったがお騒ぎになった。
鬱陶しくてペタペタする人だったがトイレについてくるのが困ったりしたが、怒らせたら怖い人だったんだと知った。

警察がぽんぽんと指紋とったりしてるのは見てて面白かった。


神戸淡路大震災、あれから良いことも辛いこともあり、良いことの方が多い。
ありのままに生きた父親に生まれる前から振り回されて、なんとか父親に生まれてよかったと認められたいと頑張ったが今も残念だ。
震災後、長田を走り回った父は助けられなかった話をして、子どもたちに快適でないキャンプ慣れさせろ、備蓄を絶やすな、車はワゴン車に買い換えろ、テントは大きいのと中に入るのを用意しろとか煩かったが、震災から一年後に体調を崩し、数ヶ月で死んでしまった。

自然災害に備えていても癌で死ぬときは死ぬ。

私自身も何回か危篤になってるし、心肺停止もやってるから今はおまけの人生で、たまに生きがいってなんだろうと思う。
ポックリと死ねないかなと、嬉しいときに良く感じる。

今日は昨日見たくない場面をうっかり見てしまい、多分疲れている。
現場におられた方々の思いと比べたら失礼とは感じつつ、昔の賑やかだった新長田や蔵書が豊富で先生の大作が展示されていた母校の学食や海が見えるアトリエなどの思い出がうまく消化できてない。