熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ 香取神宮 鹿島神宮 戦中最後の獨立展 幻のだった『菊池盡忠の歌 』80年

今年は戦中戦後の昭和20年から80年だ。

明治維新から昭和20年までが77年あり、旧日本帝国がポツダム宣言受諾で終わり、国内での戦争を知らない子どもたちが生まれるようになって80年となる。

戊辰戦争から始まった明治維新から敗戦するまでの時代は台湾出兵やら日清戦争やら日露戦争に第一世界大戦やシベリア出兵とか、男の子が生まれたら徴兵に備えて徴兵保険に加入する時代だった。(学資保険の徴兵版)

入隊するときにある程度の金がかかるので、その対策保険。

 

例えば富国生命の前身は『富国徴兵保険相互会社』、神社の鳥居などでその名を目にすることもある。

 

徴兵に備えない出産ができた戦後80年ってのは幸せだと子を産んだ私は思うのですよ。

義母は昭和27年に長男の久を産んだ時、「この子は戦争に行かなくても良い」と嬉しかったと語っていたとか。義母の兄弟は少飛から航空部隊に配属された長男、そして次男は予科練に進んでいた。

義母の二人の息子は戦争に行かなくて済んだ。そういう戦後を私たちは生きてきた。続くといいな。

 

 

 

 

某公立美術館の学芸員さんと戦争画の雑談をしていて、昭和19年に独立美術協会に出した熊谷登久平の連作の鹿島神宮香取神宮は並べられるのを前提として描いたのではないかと言われた。

どっどうなんだろう。

そして、この二作品を収蔵候補にしたいと言ってもらえた。

私は熊谷登久平の香取神宮がとても好きで、対となる鹿島神宮も好きだ。

公立美術館にこの二作品が展示されるかも、そうなったらどんなに素敵なことだろう。

常磐線を移動しながら描いたと思われる三部作、(私は勝手に決めてて、今は岩手県一関市千厩の本家が大切にしてくださっている )「潮来朝霧」は筆を縦に滑らせて描いている。そして茶色い。

 

本家で潮来朝霧を見たときに昭和19年に発表された作品ではと当主に話したが、その後国会図書館デジタルコレクションが一気に開かれたことで確認できた。

 

他の美術館に寄贈したいと申し入れて断られた絵ですけど良いのですかと。

香取神宮は熊谷登久平生誕120年展の時に洗浄修復をしているけど、鹿島神宮はいたんだままだ。

 

いいのかな。

 

 

 

f:id:TokuheiKumagai:20250312195019j:imagef:id:TokuheiKumagai:20250317135338j:image
f:id:TokuheiKumagai:20250312195022j:image

f:id:TokuheiKumagai:20250312195342j:image
f:id:TokuheiKumagai:20250312195339j:image

『第十四回獨立美術協会展 二月二十三日 三月十五日 都美術館

東朝 資材の質的低下が著しく目についく。顔料の発色の悪さが、 会場をどんよりした空気で包んでいる。

画面の汚れてゆくのは作家の罪ではないかも知れないが、 こういう時代には、 新しい構想や主題でこの困難を他へ転換すべきだろう。
少くとも今日は、 綺麗な画面の装飾的効果等を気にして筆をとる時ではない。 もと大胆に主題と取組む必要がある。
農村や漁村の生活を扱ったものに佳作がある。 秋の収穫期を描いた斎藤長三、富樫虎平の雪國の人々、 居串佳一の北海漁獲などは量質ともに優良の方で、沈滞した会場は、 これら三人の活動で幾分か引き締ったようにみえる。 
その他は熊谷登久平の香取、鹿島、宮崎精一の霧島山など神域を題材としたものや、 山道栄助の早朝鍛錬がやや見るべきであり、 主題面ではないが菅野圭介の山村冬日、長島常吉の雪の山村など目 立つ部類である。
上層部の会員は○して不活発である。 児島善三郎の三点中では池畔風景が注目されるだけであり、 須田國太郎の石組習作も格別のことはない。鈴木保徳の海景や野口弥太郎の小品も色感の良さはあるが、これも上乗の作とはいえない。
この級の会員では中山巍の小品三点と、清水登之の二点が秀作で、 それらはいずれも南方を主題としたもの、 技術もかなりしつかりしている。』

 

 

↓『潮来朝霧』洗浄修復/熊谷寿郎

f:id:TokuheiKumagai:20250315165428j:image

 

↓以前もアップしたが、義父のスクラップブックより獨立展評  荒城 季夫の署名あり。

 

 

『フクチャンの疎開』が掲載されているので昭和19年3月4日の朝日新聞と思われる

f:id:TokuheiKumagai:20250319145857j:image

Wikiより

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%AF%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93

『東京朝日新聞朝日新聞(1936年10月1日 - 1944年3月4日) - 当初は「養子のフクチャン」の題で開始。大阪朝日新聞にも数日遅れで掲載された。何度か改題されたほか、作者の事情で連載を打ち切っていた時期もあった。セリフはすべてカタカナ書き。おじいさんの着物の柄は途中からアルファベットから算用数字に代わった。』

『フクチャンソラノ巻(1944年1月31日 - 1944年3月4日) - 夕刊連載。戦闘機に乗ったフクちゃんの活躍を描く。「疎開」する名目で打ち切られた。』

 

 

参考として宮崎精一画伯の『霧島』 

昭和19年独立展出品時は『皇祖発祥の聖地 霧島』

昭和63年の熊本県立美術館/宮崎精一展の図録より

f:id:TokuheiKumagai:20250313013402j:image

↓同じく昭和19年独立展出品作『盡忠 菊地氏神社』(尽忠 菊地氏神社  盡忠/じんちゅう)

昭和19年に第二熊本県歌となった南朝の忠心を讃える『菊池盡忠の歌』の舞台

敗戦後からは長らく歌われていない。熊本県の済済黌校の軍歴あるOBたちが私に歌ってくれたことがある。

昭和63年の図録では『菊地神社』

 

 

f:id:TokuheiKumagai:20250313132939j:image

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E7%9B%A1%E5%BF%A0%E3%81%AE%E6%AD%8C

『尽忠の歌の解説 Wikiより
1943年(昭和18年)、当時の横溝光暉知事が戦時における県民の士気高揚を目的として菊池氏の「尽忠報国」を顕彰する県民歌の制定を指示し、10月に完成・制定された[1]。翌1944年(昭和19年)に大政翼賛会熊本県支部が発行した『菊池精神発揚読本』では冒頭にこの曲が掲載されており[2]、県下の国民学校や旧制中学校を中心に普及が図られた。

1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終結した後は、その制定動機からGHQにより一切の歌唱・演奏を禁じられ、県民歌としての制定からわずか3年余りで廃止された。戦後の1959年(昭和34年)には第15回熊本国体の開催を記念して熊本国体実行委員会が新たに「熊本県民の歌」(作詞・坂井秀雄、作曲・出田憲二)を制定し、この歌が県に引き継れて現在に至っているが「熊本県民の歌」は制定主体が県でない事情から「2代目の県民歌」とはされていない。

廃止から60年以上が経過した2011年(平成23年)、菊池市で有志がCDを自主製作したことを契機に菊池神社へ歌を奉納する「菊池尽忠の歌を唄うつどい」が開催されるようになっている[3]。』
 


f:id:TokuheiKumagai:20250313132950j:image
f:id:TokuheiKumagai:20250313132946j:image
f:id:TokuheiKumagai:20250313132943j:image

 

https://kotobank.jp/word/%E8%8D%92%E5%9F%8E%E5%AD%A3%E5%A4%AB-1051143

荒城 季夫
アラキ スエオ
昭和期の美術評論家

 

生年 明治27(1894)年1月10日

没年 (没年不詳)

出生地 東京

学歴〔年〕早稲田大学英文科〔大正6年〕卒

経歴 フランス近代絵画の原作をわが国へ紹介することにつとめた。大正14年から昭和3年にいたる「日仏芸術」全36巻を編集し、5年日本美術学校教授に就任。美術評論家としても活躍し「古代美と近代美」「印象派の星座」などの著書がある。


出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 

 

↓参考として昭和16年 第5回大日本海洋美術展 朝日新聞社 招待出展「海に生く」(現在/青梅美術館蔵) 

f:id:TokuheiKumagai:20250319151447j:image

f:id:TokuheiKumagai:20250319151729j:image