この頃、美術団体展の展示準備には陸軍関係者の同席があり、時代に配慮したものが求められた。
また画材は配給となり国産化が成功した茶色を使うことは推奨されたと聞く。
そして頑固な義父にはホワイトは手に入らない。
その時代の茶色い作品。

↓公立美術館より寄贈の打診あり、秋に審査。

↓公立美術館より寄贈の打診あり、秋に審査。
↓岩手県一関市千厩 熊谷美術館蔵
昭和19年の戦時特別文展に展示された茶色の絵の具が主流の作品。ほんのり白を使っているかな。
義父は画家の徴兵とも言える従軍画家になりたくなくて昭和19年に国策会社東京航空計器の正規社員となり、社章のデザインを手がけた。
また敗戦後、義父以外の大卒社員が戦犯容疑で……そして公職追放となり、義父は東京航空計器から残留を求められて重役となり進駐軍との交渉などについた。

東京航空計器は軍の計器を作る会社で、義父は地方から工員として集められてくる学生たちの指導のような形であったようだ。主に女学生。
その中には故郷岩手県の女学校からの生徒もいて、無理せず的な助言をし愛国心に燃える女学生は……

義父が家族に色々話した平和地蔵さん。
10年ほど前まで通っていた空襲被害関係者さんがいらしたが、今は戦後世代がお参りしている。










