熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

テキストを絞り出す

在廊 水谷嘉弘 島村直子 熊谷明子 

テキスト突然急ぎとなった。

 

私は義父の絵がとても好きなので、下手を連呼されてからこれは良いと言われても哀しいだけになる。

 

 

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↑昭和27年、日本の主権が回復GHQが廃止された。
この年厚生省の洋画同好会が発足。その指導に登久平が招かれ会の名は熊谷の逆読みのバリベア会となり、室内指導と写生旅行にも出かけた。
この『山と湖』はその写生旅行先、日光で描かれた。

昭和28年GHQに遠慮なく集団行動ができる時代の幸福感。

 

日本がGHQの管轄だった時代、同窓会的な集会ですら取調べられたり、仲間と旅行もむずかったんですよ。
例えば慰霊碑も昭和27年以降に建立されたものが多いのは戦勝国に対して不満を持つものと見られる危険があったから。
特高もいたバリベア会のメンバーが集えて写生旅行にも行けるようになった講和条約後。

 

戦前は絵に赤色を多く使っても取調べ受けた。

戦中は軍に協力的でないと絵具を入手できなくなっていった。

登久平は国策会社の東京航空計器に入社して戦場画家逃れをした。

敗戦後、東京航空計器の重役たちは次々とGHQに連れて行かれて戦争協力者として取調べを受け、あるものは公職追放となる。

元が絵描きで戦場画家逃れだった登久平は取調べ対象外となり、社に残った数少ない大卒として重役待遇で残留を望まれ残り、GHQとの交渉などもやっていた新聞記事が残っている。

講和条約後は会社を生き残られせた功績が認められて重役出勤の重役として東京航空計器に残る。

公職追放されていた友人たちも戻ってきた。

そして、長男の久も生まれた。

義母は新憲法を読んで「この子は戦争に行かなくても良い」とホッとしたそうだ。

 

 

 


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