熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

大学病院への紹介状 朝日新聞団子坂店があった場所

午前、千駄木の病院での検査。

その結果、私の肝臓に何かあるので日医大に行くことになった。

血液検査の方には異常がないので大丈夫だと私は思う。

 

かつて世話になった朝日新聞団子坂店の鎌田夫妻。その団子坂店は放火で焼けて奥様が亡くなられた。そこは今はマンションになっていて前を通るたびに胸がチクチクする。

そのマンションの前は不忍通りで、かつてはチンチン電車が走り、電車通りとも呼ばれていたと聞く。その通りを渡ったところにタバコ屋の服部さんがあった、その横に坂下平和地蔵尊がある。

マンションの敷地の一角でもあり、そこは戦中までお風呂屋さんだった。

 

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↑服部さんの奥様と地蔵尊。地蔵さまの赤い帽子とよだれ掛けは奥様の手縫。

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↓↑マンションになる前は平和荘というアパートがあり、ここに地蔵尊はあった。
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朝日新聞団子坂店があったところ。
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https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_bunkyo_city001/index.html

 

『「坂下平和地蔵尊

  由来の記

 

一九四五年( 昭和二〇年) 三月四日朝、アメリカ空軍B 2 9 によって、この地域の千駄木・谷中に多数の爆弾が投下され、大きな被害を受けました。死者五〇〇人以上といわれています。

この地には、銭湯「鹿島湯」があり、石炭貯蔵庫を防空壕に使用していました。同銭湯に爆弾が投下し、防空壕に入っていた赤ちゃんを含む二三人の方が犠牲になりました。

一九五九年( 昭和三四年)、この方々の冥福と戦争を二度と起こさぬことを誓い、近所の人々によって、この地蔵尊が建立され、「坂下平和地蔵尊」と命名されました。


平和地蔵尊を守り戦争体験を語り継ぐ懇談会』

 

今日は服部さんの奥様にお会いできて色々と聞けた。そして、朝日新聞団子坂店の鎌田夫妻にお世話になっていた話しをしたところサイレンで気がつき火事をご覧になったとのこと。不忍通りを挟んでいても熱気が来ていたことなどを話してくださった。

 

縁とは不思議なものだ。

 

午後、新聞記者さんから取材を受ける。

ノルルに毛を噛み切られる今日この頃の薄毛を隠す為に部分カツラを使った。

 

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