夜19時50分ごろ、夫パニック障害が出る。
頓服薬が効くまで30分ほど。
その前は食欲もあり、元気だったが唐突に。
午前には謎のファックスがきた。
夫悲鳴をあげる。
電気料金等内訳書。
291672円。
30万円弱。
金額にびっくり。
我が家、先月は38691円
内訳、電気が32607円
ガス5700円。
ガス警報器354円
お店と母屋込みです。
で、ネットで契約している電気ガス会社で調べたらまだ今月分は確定してない。
ファックスが届いてから少しして非通知電話が何回もかかってきてる。
気持ち悪い。


篠原薫画伯が昭和22年に描いた團子坂風景

↓ 菊地正浩 地図で読む東京大空襲: 両国生まれの実体験をもとに 出版社草思社 (2014/2/20) より抜粋した千駄木あたりの被災図

ふるさと千駄木
図書
野口福治 著 野口健治, 1981.10

『上千駄木に焼夷弾』
昭和二十年一月、年の開けるのを待っていたかのように、B29の来襲が本格的になり、一月二十八
一日には、わが団子坂上の蓬莱町から上千駄木 延々と五百戸以上が焼失した。
この団子坂上の国宝に等しいあの金色の大観音が焼失、私どもの町の浜田湯、大野屋旅館、専修商業などの大きな建物が焼けている最中に、少し離れた根津神社本殿のから青い炎が出はじめたが、それはどうやら消しとめた。
(このことは「根津神社の由来」の十五貞に詳し)
『団子坂を中心に爆弾の嵐』
三月四日、ものすごいのが私どもの町を襲った。 本郷台も、 神明町から道山の一帯が焼け野原になり、焼け残った団子坂の通りは、中学校、谷中の両小学校と、三軒の公衆浴場があり、その他近い所に十本の実が空高く突き出しているため、工場地帯と思われたのか、団子坂を中心になんと三十発以上もの爆弾が落とされた。中の出来であるから詳しく書いてみる。
三月四日午前八時頃、私どもが町会事務所に待機していると、汐見小学校の屋上の監視所から、
機襲来のサイレンが激しく鳴り響いて来た。 一同は「ソラ来た。 皆さん元気で」 と手を振って飛び出した。 私は二十メートルぐらい行った村田医院の四つ辻に来た、ゴオーと尾を引いて風を切って来爆弾が、すぐ近くで、ドカン・パリパリと炸裂し、地上の物が飛び散る音に、思わず、生まれて初めて路上にハイツクばってしまった。爆音が去ったので、そうっと目を開けて見ると、四、五メートル先の電柱がまた大きく揺れ動いており、爆風の威力を物語っていた。
私は防空指導員としての責任を感じて、目まいや耳鳴りで頭がぐらぐらするのを無理に我慢して、電車通りに出て驚いた。あちこちの路上に顔をすりつけて身動きもしない死人のような人がたくさんいた。この爆弾は大野屋食堂と今の鳥安さん前の軌道に落とされた二百五十キロ級の爆弾で、深さ二メートル、周囲二十メートルぐらいの擂り鉢形の大きな穴があき、この爆風で大野屋食堂は半壊になり、隣の二階にいた子供が裏通りに吹き飛ばされたが、奇跡的に無事であった。
この時、汐見小学校の屋上で高射砲を撃ちまくったが、敵はこの屋上を狙ってだろう、爆弾が校庭内に二発、第八中学との境に一発の計三発が落とされたが、学童はさいわいに塩原に疎開しており、皆無事であった。
だが、今ある横浜テープの裏側では、母親と子供が 生き埋めになり、また秋さんの南横の尾関さんの母と子が、町会事務所の隣でも母親と娘さんが、汐見小学校の表門通りでは二カ所で荒川さんの娘と角田さんの長男が、それぞれ死んだ。
なお、電車通 りの松美屋の裏側にあった大衆浴場の裏口に、朝方だというのに三、四人のお客がこの爆風で吹き飛 ばされたり、今しがた、町会事務所で「元気でな」と別れたばかりの、防空指導員・新井自転車店の 御主人が、藍染川の暗渠道路上で爆死した知らせを受けた。
私どもは飛んでゆき、俺たちもすぐ後か ら行くからと黙祷を捧げた。
このように書いてくると、まだまだ際限がないほどである。
特に悲劇だったのは、林町の西林町会の崖上にあった町会用の大きな防火用貯水池に爆弾が落とさ れた時、この用水が、運悪く、崖下にあった坂下南部町会の防空壕内にドッと浸入したため、退避し ていた四十名ぐらいの人が逃げ場を失い、壕内で全員圧死されたという出来ごともあった。なお、爆 弾のために大きな夜具が電車の架線の上に載っていたり、庭石が屋根を突き破って座敷の中に落ちて 来たなどの被害は至る所にあった。
この二日後の六日午後一時に、汐見小学校の校庭で、近隣の町会が合同して、丁重に仮葬儀を行い、 心から御冥福をお祈りした。
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以下『地図で読む東京大空襲』に掲載されている旧本郷区詳細図より。


『菊地正浩 地図で読む東京大空襲: 両国生まれの実体験をもとに』 出版社/草思社 (2014/2/20)

メモ
「清水多嘉示資料展」
https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12631/
『本展覧会は今年7月より開催された「清水多嘉示資料展」の第II期となり、パリから帰国した清水多嘉示が本学の前身である帝国美術学校の設立に参画した1929年から、1945年の太平洋戦争終結までの資料を展示します。 本展示は、戦争に関係する自らの記録資料を、清水が廃棄することなく残したことの意味を現在に問うものです。本学共同…
ソース: 武蔵野美術大学 美術館』
https://search.app/f7P8RnnMkV9RUDZk7
メモ 織田信大
東京戦災スケッチ116 不忍池畔
織田信大/画
https://museumcollection.tokyo/works/6277130/
織田信大(1888~1964)は、旧丹波柏原藩主織田家(子爵)に生まれ、東京美術学校洋画科を卒業、美術出版巧芸社の役員などを務めた。昭和20年5月の山の手空襲後における東京の焼け跡の風景を水彩で描いた連作
資料探してます。
『画家として、平和を希う人として 加納辰夫(莞蕾)の平和思想』娘さんが書いた本。


