『さて、画廊創業といっても、扱う画家が一変するわけではない。自分の力のおよぶ範囲でその間口を拡げていったものの、だいたいがいままでに知った作家の延長である。そのころ、私のカツギ屋画商時代に横浜で知りあいになった篠原薫という男が、ひょっこり店にたずねてきた。「いっしょに商売をさせてくれ」というのである。
彼は船員あがりで、小さな喫茶店を横浜でやっていたのだが、絵が好きで当時、白日会に出品しており、その旗頭の富田温一郎さんをたいへん尊敬していた。それで、彼は富田さんの四号の『バラ』の絵をもって来て「これこそ玉のような作品だ」と賛嘆する。
なるほど、そんなものか"と壁にかけてわが最高の作品 ときめこんだりした。そのくらい、私はまだ画壇事情にも通じていなかったのである。』
『洋画商 長谷川仁 著 日動画廊, 1964』
『ふるさと千駄木 野口福治 著 出版者野口健治 1981.10』より千駄木 団子坂の空襲関係を抜粋↓
【上千駄木に焼夷弾
昭和二十年一月、年の開けるのを待っていたかのように、B29の来襲が本格的になり、一月二十八
一日には、わが団子坂上の蓬莱町から上千駄木 延々と五百戸以上が焼失した。
この団子坂上の国宝に等しいあの金色の大観音が焼失、私どもの町の浜田湯、大野屋旅館、専修商業などの大きな建物が焼けている最中に、少し離れた根津神社本殿のから青い炎が出はじめたが、それはどうやら消しとめた。
(このことは「根津神社の由来」の十五貞に詳し)】
【団子坂を中心に爆弾の嵐
三月四日、ものすごい爆弾の嵐が私どもの町を襲った。 本郷台も、神明町から道灌山の一帯が焼け野原になり、焼け残った団子坂の通りには、駒込中学校、汐見、谷中の両小学校と、三軒の公衆浴場があり、その他近い所に十本の煙突が空高く突き出しているため、工場地帯と思われたのか、団子坂を中心になんと二十発以上もの爆弾が落とされた。町の中の出来ごとであるから詳しく書いてみる。
三月四日午前八時頃、私どもが町会事務所に待機していると、汐見小学校の屋上の監視所から、敵
機襲来のサイレンが激しく鳴り響いて来た。一同は「ソラ来た。皆さん元気で」と手を振って飛び出した。私は二十メートルぐらい行った村田医院の四つ辻に来た時、ゴオーと尾を引いて風を切って来た爆弾が、すぐ近くで、ドカン・パリパリと炸裂し、地上の物が飛び散る大音響に、思わず、生まれて初めて路上にハイツクばってしまった。爆音が去ったので、そうっと目を開けて見ると、四、五メートル先の電柱がまた大きく揺れ動いており、爆風の威力を物語っていた。
私は防空指導員としての責任を感じて、目まいや耳鳴りで頭がぐらぐらするのを無理に我慢して、電車通りに出て驚いた。あちこちの路上に顔をすりつけて身動きもしない死人のような人がたくさんいた。この爆弾は大野屋食堂と今の鳥安さん前の軌道に落とされた二百五十キロ級の爆弾で、深さ二メートル、周囲二十メートルぐらいの擂り鉢形の大きな穴があき、この爆風で大野屋食堂は半壊になり、隣の二階にいた子供が裏通りに吹き飛ばされたが、奇跡的に無事であった。
この時、汐見小学校の屋上で高射砲を撃ちまくったが、敵はこの屋上を狙ってだろう、爆弾が校庭内に二発、第八中学との境に一発の計三発が落とされたが、学童は……】