戦前、谷中清水町発祥の美術団体白日会会員だった熊谷登久平の画仲間で谷中三崎町住まいだった白日会所属の篠原薫画伯が描いた戦災後の團子坂風景。
谷中小学校の上あたりから焼け野原の千駄木の團子坂周辺を描いた作品。
團子坂の空襲被害図。
この時代の様子は森まゆみさんたちの 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」其の八十 の特集:六十年めにやっと聞けた わが町の空襲である程度は読める。(Amazonでデジタル版が買えます)
で、私が気になっているのは団子坂には煙突のある建物が多くて工場と勘違いされて空襲された的な証言。
その煙突がある建物は篠原薫画伯の絵にも描かれていて、細かいことを気にする私的には、この建物は銭湯?病院?と。
それで印刷したこの絵を持ち歩き書き歩いているが、戦後80年まで一年ない戦後78年の今日この頃。
当時を聞いたことがある人には会えたが、建物が何とわかる人には会えてない。
千駄木の『坂下平和地蔵尊』を守っていた会も今はなく個人の方が手入れをしていると聞いた。
戦後50年の頃に根津空襲資料関係でも活動されていた根津在住の林順信先生も今はなく。
(鉄道写真集「激変した東京の街/焼跡・都電・40年 」林順信著昭和62年大正出版刊132頁。空襲・焼跡グラフィティなど)
嗚呼
文京区の中央図書館と文京ふるさと記念館にも空襲関係の資料があまりなく、地図も小石川区のは残っているけど本郷区のはあまりなく。
登記簿調べるしかないのかなぁ。