義父が属していた独立美術協会の現会員の結城康太朗さんとお父様の
結城天鼓✖️結城康太朗展
〒103-0007 東京都中央区日本橋浜町2丁目30−7 水野ビル 1階
ART&CAFE+BAR あ・い・う。
今月30日まで。
義父の個展をきっかけに知り合った結城康太朗先生とお父様の日中水墨交流協会顧問の結城天鼓先生の作品展。に行くために、大江戸線の上野御徒町駅へ自転車で移動。
その途中、黒湯温泉の銭湯、六龍鉱泉銭湯を見てきた。
去年の夏に営業をやめていたけど、建物はいつまでもあるつもりだった。
解体業者が入ってた。
結城先生の個展会場は日本橋の浜町なので、大江戸線で森下駅乗り換えで新宿線の浜町駅に。
浜町は私が初めて勤めた小さな出版社があったところで、通勤は竹の塚駅から日比谷線で人形町へ行って明治座に向かって歩き浜町公園の入り口、空襲慰霊碑前を右側に曲がり少し歩いた所にあったホカ弁の上に職場はあった。
また、義父の熊谷登久平が長谷川利行に出逢う前の大正15年まで暮らしていた所であり、第1回独立美術展に出展した作品は浜町公園だった。
浜町公園は関東大震災後の復興公園の一つであり、次の災害があったら逃げ込めるようになっていたが、太平洋戦争時に高射砲陣地が作られて東京大空襲時に逃げ込もうとした人たちを陣地が保護しなかったとの伝承があり、人々は鉄筋コンクリートの明治座に逃げ込み、防火扉だったかシャッターだったかが閉まらず火が入り
中で多くの人が焼け死んだ。
中の人たちは逃げられないと悟り、君が代を歌って死んだとの伝承があった。
その伝承を私に話してくださったおばあさんがいた家は今はホテルになっていた。
猫がいる木造の食品を扱う商店で通勤途中にお昼ご飯をそこで買っていた。
あの君が代の伝承は本当だろうかと後に尋ねて歩いたけど、伝承は伝承としてまだ戦後50年の頃は地元の人に残っていたが、今はもう昔の話。
東京大空襲の慰霊の観音堂の名前に明治がつく由来も忘れられていくのだろう。
で、結城天鼓✖️結城康太朗展良かったです。
会場のART&CAFE+BAR あ・い・う。の食事も美味しかった。
浜町公園に大きな鼠が2匹もいた。
のはビックリした。