以下、
コロナになってから記憶障害がひどいのでカンペ。もし私が体調を崩してもメンバーの方が簡単に読めるのであえてここ。
歓送
坪内正君 応召

(右から)
①水田硯山(みずた けんざん 1902-1988)
画家。本名は美朗(よしろう)。大阪博労町(中央区)の貴金属商に生まれる。画家である兄の水田竹圃について学ぶ。南岳からは漢学を学び、大正7年(1918)京都に移って南画を研究する。のち日本南画院を中心に活躍し、帝展で三たび特選。後期印象派の影響をうけた山水画を描く。戦後は日展を中心に委嘱出品する。日本南画院理事・監事。
②高田 力蔵(たかだ りきぞう 1900-1992)
1900年〈明治33年〉10月18日 - 1992年〈平成4年〉10月31日)は、日本の洋画家。春陽会、日本水彩画会。パリのルーブル美術館などの西洋の名画を模写したことでも知られる。
③横堀角次郎 (よこぼり かくじろう 1897-1978)
号は木黄。明治30年2月17日群馬県勢多郡に生まれ、前橋中学から東京芝の正則中学校に転校し大正3年卒業した。卒業の年頃から油絵を描き始め、同級の椿貞雄と岸田劉生を訪ね、翌年の巽画会第15会展に出品した「自画像」で三等賞銅牌を受賞、また劉生の草土社創立に木村荘八、椿らとともに参加した。銅6年、劉生に従って鵠沼に転居したが、同12年の関東大震災により一時帰京後東京に戻った。
④濱地清松(浜地清松 はまじ せいまつ1885-1947)
洋画家。現在の和歌山県東牟婁郡串本町に生まれる。明治34年(1901)、渡米してボストン美術学校に学ぶ。大正9年(1920)に帰国。大正11年ごろ、和歌山県新宮で新宮洋画研究所を開いている。大正14年、再渡米して、ニューヨークで活動する。翌年に渡仏して、サロン・ナショナルに入選。昭和2年(1927)に帰国。昭和3年、第9回帝展特選。以後、官展に出品を続け、新文展に無鑑査。昭和4年、第一美術協会設立に参加し、出品を続ける。
⑤小山周次 (こやま しゅうじ 1885-1967)
明治18(1885)年6月27日小諸市に生まれる。小諸高等小学校卒業後、小諸義塾に入学。木村熊二、島崎藤村、三宅克己らに学ぶ。丸山晩霞の内弟子をへて、日本水彩画会研究所に通う。日本水彩画会の創立に参加。二科会の事務をも担当。成城学園高等科美術教師を18年あまり勤める。後年紺綬褒章を受ける。
昭和42(1967)年12月18日逝去。享年82歳。
⑥望月春江 (もちづき しゅんこう、1893-1979)
山梨県西山梨郡住吉村(現、甲府市)に生まれる。東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科で結城素明に学んだ。1928(昭和3)年の第9回帝展と翌第10回展において特選を連続受賞して名が一躍世に広まる。後には文展、日展の審査員をつとめ、日本芸術院賞を受賞した。一方、東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)などで教鞭を執り後進を育成した。本県への貢献も高く、山梨美術協会を結成するなどして、1975(昭和50)年に山梨県特別文化功労者として表彰された。
⑦中野和高 (なかの かずたか 1896-1965年)
明治29年愛媛県大洲生まれ。本名は和光。牧師だった父の赴任先だった宮城県仙台第一中学校を卒業、その後上京して白馬会洋画研究所で黒田清輝の指導を受けた。大正10年東京美術学校西洋画科を卒業、同年第3回帝展に初入選、昭和2年第8回帝展から3年続けて特選となった。ヨーロッパ遊学後は、1930年協会会員もつとめた。昭和5年からは帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)教授。昭和16年仲間と創元会を創立、戦後は創元会展と日展に出品した。昭和33年日本芸術院賞を受賞した。昭和40年、70歳で死去した。
⑧ 石井鶴三 (いしい つるぞう、1887-1973)
画家鈴木鵞湖の孫、画家石井鼎湖の三男、石井柏亭の弟として東京府下谷区仲御徒士町(現・台東区上野)に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び[、1905年創刊の雑誌『平旦』にウィリアム・ニコルソンの作品を模倣した自画自刻による木版画『虎』を掲載した。1910年に彫刻を学んで東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、1919年、木版画『日本風景版画集』第9集(東京近郊)を、1920年、木版画『日本風景版画集』第10集(日本アルプス)を刊行した。以降、日本版画協会の会長、理事長を務めている。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られ、1944年東京美術学校教授。1950年日本芸術院会員、1961年日本美術院彫塑部を解散、1963年東京芸術大学名誉教授、1967年勲三等旭日中綬章受章。
⑨太田三郎(おおた さぶろう 1884-1969)
生誕は、明治17年(1884年)12月24日、愛知県西春日井に於て、枇杷嶋は名古屋向け青物の市場の地、三郎の生家も其の問屋の一つであったが、父が富裕にまかせて風雅に流れ、僊艸の雅号で絵(日本画)をかいたりして、産を破った。文雅と貧窮とを相続して、三郎は、17才で東京に奔り、画業を苦学した。黒田清輝に西洋画を学び、白馬会洋画研究所に通ったが、他方、日本画をも寺崎広業に習った。洋画家として地歩を占めた後も、折々日本画をものし、また洋画に日本画の気味・手法を交へることが有った所以である。日本画には、三郎をもじった「沙夢楼」の号を用いたこともある。洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。属した美術団体としては光風会を挙ぐべく、又、同郷の和洋画家・彫刻家・工芸家等と共に愛知社を組織したことは愛知県の美術振興に大いに寄与したものである。
太田三郎
『洋画家。君島柳三、沙夢楼とも名乗る。愛知県に生まれる。白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事するとともに、寺崎広業に日本画を学ぶ。明治43年(1910)、文展初入選。大正2年(1913)、文展三等賞。大正9年より大正11年に渡欧留学。大正13年より光風会会員。昭和8年(1933)、帝展審査員。昭和30年(1955)、愛知県文化会館美術館(現・愛知県美術館)館長。
代表作は、「ビーヤホールの女」(明治43年 第4回文展)、「カッフェの女」(大正2年 第7回文展三等賞)などがある。留学後は、キュビスムとフォーヴィスムに傾倒した。川端康成『浅草紅団』など挿絵も手掛けた。著書も多い。
◇戦争画との関連
戦争美術関係の展覧会では、昭和12年の第1回海洋美術展、昭和13年の第2回海洋美術展に出品している。 (靖国の絵巻サイトより抜粋)」
⑩ 木村 荘八(きむら しょうはち、1893-1958)
明治26年8月21日東京日本橋区に生れた。明治43年京華中学を卒業、文学演劇に関心をもつ多感な少年であつた。45年葵橋の洋画研究所に入り岸田劉生と交友、同年フューザン会を結成して当時としては革新的な、フォーヴ風な作品を発表した。翌年フューザン会は解散し生活社を起したが、大正4年更に岸田劉生等と草土社を創立した。草土社時代は劉生の影響をつよくうけ、精神主義的な傾向のつよい写実描写に入つていつた。この時代、二科会、院展洋画部にも出品して、大正7年には院展で樗牛賞を受けている。
(11)佐藤敬 (さとう けい 1906-1978)
洋画家。大分県大分市に生まれる。上京して川端画学校洋画部で学ぶ。大正15年(1926)、東京美術学校入学。在学中の昭和4年(1929)、第10回帝展に初入選。昭和5年、在学のまま、渡仏。昭和6年、卒業。昭和7年、サロン・ドートンヌで入選、帝展で特選を受ける。昭和9年、帰国。昭和10年、帝展改組に反対して第二部会に参加、翌年の猪熊弦一郎らの新制作協会設立に参加する。戦後は渡仏し、フランスを中心に活躍した。昭和51年、勲三等瑞宝章。
代表作としては「ル・クルン(道化者)」(昭和7(1932) 第13回帝展特選)、「人間の壁(白)」(昭和39(1964))がある。ヨーロッパの現代絵画を吸収し、ピカソに影響を受けたキュビスムの作風から、抽象画へと移っていった。
◇戦争画との関連
昭和16年、中国に従軍画家として赴く。翌年にはフィリピンに赴いている。これは美術界への監視を強める警察におもねるためだったという。昭和14年設立の陸軍美術協会に参加している。
戦争美術関係の展覧会では、昭和18年の陸軍美術展(第1回)、昭和19年の陸軍美術展(第2回)、昭和20年の陸軍美術展(第3回)に出品しており、昭和17年の第1回大東亜戦争美術展、昭和18年の第2回大東亜戦争美術展に出品している。また、昭和19年の第8回海洋美術展に出品している。
(12)野田九浦 (のだ きゅうほ 1879-1971)
明治12年<1879>-昭和46年<1971> 東京都出身
日本画家。東京の下町に生まれ、4歳の頃より函館で生活。1895年、寺崎広業に師事し上京。翌年東京美術学校(東京藝術大学)に入学するも、岡倉天心の排斥運動により広業と共に退学。黒田清輝主催の白馬会研究所で学んだ後、1907年の第一回文展で「辻説法」が二等賞を受賞。同年大阪朝日新聞社に入社(1917年まで)し、夏目漱石の『坑夫』の挿絵を描いた。1917年「妙見詣」が文展特選に選ばれ、以降は官展を中心に活躍し、帝国芸術院会員をつとめた。1920年画塾煌土社を設立、1938年には日本画院の創立に参加し、後進の指導にも力を尽くした。金沢美術大学名誉教授。日展顧問。本名・道三。東京都出身。(お世話になることが多い神保町の山田書店さんのサイトより)』
(13)辻永 (つじ ひさし、1884-1974 私が師事した先生が弟子だったりする)
明治17年(1884)2月20日、父の任地広島県に生まれ、水戸中学校を卒業、東京美術学校西洋画科に進んでいる。同級生に森田恒友、山本鼎などがいた。黒田清輝、岡田三郎助の指導をうけ「飼はれたる山羊」(明治43年)、「無花果畑」(明治45)、「椿と仔山羊」(大正5)など、初期には山羊の画家として知られ、白馬会系の描写をさらに進めて、大正9年から10年にかけてのヨーロッパ滞在をへてしだいに風景画家としての明確な方向をとっていった。辻は少年時代からとりわけ植物に対する関心がつよく、樹木、花にひかれて日本各地を旅行し、日本の湿った風土の風景を描くことに専念していった。後年植物草花に対する関心は、『萬花図鑑』(12巻、昭和6年、平凡社)、『萬花譜』(12巻、昭和32年、平凡社)となって結実した。戦後、文展が文部省より離れて日展となり、昭和33年、社団法人日展となってからは、辻は理事長となって会の運営にあたり、日展の法王、と称されるほどに日展の中心的な存在となり、また芸術院においても大きな役割をはたした。昭和34年文化功労者、昭和39年には、勲二等瑞宝章をうけている。(「辻永」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(265-271頁)
(14) 神津港人 (こうづ こうじん、1889-1978)
明治22年12月、21日長野県北佐久郡に生れた。同35年長野県野沢中学に入学し、休日に丸山晩霞に絵を学んだ。同40年東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝、藤島武二、和田英作の指導をうけ、45年に卒業した。大正4年第9回文展に「電車」が初入選し、以後「信濃路」(12回文)、「凩」(4回帝)等を官展に発表した。大正9年農商務省商業美術研究生となり、英国に留学し、ロイヤル・アカデミー・スクールに学び、翌年パリ、アカデミー・ジュリアンに学んだ。フランス、ドイツ、スイス、イタリーに写生旅行をして大正11年帰国品を発表した。昭和3年官展出品を辞め、友人齋藤素巖の創立した構造社に加盟して絵画部を創設、絵画部主任となり、「雁来紅」(第2回展)、「百合花」「裸体習作」「豊穣」(第3回展)などを発表した。昭和7年にはロスアンゼルス第10回オリンピック大会に日本最初の芸術競技役員として渡米した。昭和10年松田改組に際して、盟友と意見を異にしたことから構造社を脱退し、個展によって発表したが、同14年には緑巷会を創立主宰した。毎年公募展を開催したが、戦後は緑巷会を創芸協会と改称し、昭和32年にはこれを第一美術協会と合併して副委員長となった。第一美術協会名誉会員、日本山林美術協会名誉会員、信州美術会顧問。
出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(287頁) 東京文化財研究所
(15) 赤城泰舒(あかぎ やすのぶ 1889-1955)
明治22年6月30日静岡県駿東郡に生る。同37年一時神奈川県葉山に移り、翌年父の郷里福島県に帰住した。同39年出京して大下藤次郎の内弟子となり、水彩講習所と太平洋画会研究所に学んだ。同40年日本水彩画会研究所新設と共に同所に転じ、大正2年まで同会幹事をつとめながら修業した。明治42年第3回文展に「高原の朝」が初入選し、その後文、帝展、二科展、光風会展、日展等に多くの水彩画を出品した。大正2年同志と共に日本水彩画会を創立し、同7年には光風会々員に推され、昭和18年新文展の審査員となつた。また大正10年から長い間私立文化学院の教師をつとめ、昭和17年以来女子美術専門学校の講師となつて後進を指導するなど美術教育のためにもつくした。著書に「水絵の手ほどき」(昭和4年、博文館)がある。
出 典:『日本美術年鑑』「赤城泰舒」『日本美術年鑑』昭和31年版(150頁)
『赤城泰舒(1889-1955)あかぎ・やすのぶ
明治22年静岡県駿東郡長泉町生まれ。沼津中学を病気で退学し、明治37年療養のため神奈川県葉山に移り、療養中に水彩画に親しんだ。明治38年一家で父親の郷里・福島郡塩川町(現在の喜多方市)に移り住んだ。明治39年上京して大下藤次郎の内弟子となり、水彩講習所と太平洋画研究所に通った。明治40年創立された日本水彩画研究所の幹事となり大正2年までつとめた。明治42年第3回文展に初入選、その後、官展、二科展、光風会展などに出品した。明治44年から水彩画の雑誌「みずゑ」の編集にあたった。大正2年日本水彩画会の創立に参加。大正7年光風会会員となった。大正10年文化学院の創立に参加し、絵画科の担当を昭和16年までつとめ、昭和17年女子美術学校講師となった。昭和18年新文展審査員となった。昭和30年、66歳で死去した。( UAG美術家研究所)
(16) 石井 柏亭(いしい はくてい、1882-1958)
洋画家。父鼎湖に日本画を、浅井忠に洋画を学ぶ。明治34(1901)年自然主義を標榜する无声会、翌年太平洋画会に参加。37年東京美術学校(後の東京芸術大学)洋画科に入学するも、翌年中退した。40年森田恒友、山本鼎と雑誌『方寸』を創刊し、創作版画運動を先駆した。大正3(1914)年二科会の創立に参加。昭和10(1935)年帝国美術院会員となり、二科会を離れて同志と一水会を創立した。堅実な自然主義的な画風の作品を残し、水彩画の発達にも貢献した。代表作に「草上の小憩」等。彫刻家の石井鶴三は弟。
(「近代日本人の肖像」国立国会図書館の電子展示会より)
『1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で[1]、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾[2]。
1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。1897年(明治30年)浅井忠に入門し、油絵を学び、1900年(明治33年)に結城素明らが自然主義を標榜して結成した无声会に参加、新日本画運動を推進した。また、中村不折にも師事しており、1902年(明治35年)に結成された太平洋画会に参加。/Wikiより抜粋』
(17)荒井龍男 (あらい たつお 1904-1955)
中津市に生まれ、幼くして家族とともに朝鮮に渡り、独学で絵を修得、急逝するまでの23年間に次々と問題作を発表し、常に日本洋画壇の先頭に立って活躍した。
昭和7年に二科展に初入選して画業を開始した荒井は、昭和9年にはシベリア経由で渡仏し、デュフィやザッキンのアトリエを訪問して指導を受けた。帰国後は、東京に居を定め、昭和12年に山口薫、長谷川三郎、村井正誠、難波田龍起らと自由美術家協会(のちに自由美術協会と改称)を設立するが、昭和25年、左翼的リアリズム派とは同調しかねるとの理由から、山口薫、村井正誠、小松義雄らとともに自由美術協会を脱退、同年モダンアート協会を結成した。この年を境に自然形態は簡略化され、詩的な抽象へと画風が変化していった。
昭和27年には米国へと旅立ち、昭和30年に帰国するまで、ニューヨーク、パリ、サンパウロなど各地で個展を開催し好評を博した。その後の活躍も期待されたが、昭和30年の帰国後、同年ブリヂストン美術館で開催した個展の直後、ガンのため急逝した。
(UAG美術家研究所 異色の抽象画家・荒井龍男と昭和期の大分県の洋画家 より)
(18) 齊藤与里 (さいとう より、1885-1959) かなぁ( ; ; )
本名 齊藤 與里治(よりじ)。洋画家。
斎藤与里は、1885年(明治18年)に現在の加須市下樋遣川に生まれました。父は村議会議員を務めた村の名士で妻、伏代(鳥取県・佐賀県知事などを歴任した香川輝氏の長女)との間に二男一女を授かりました。
1905年(明治38年)京都に出て、浅井忠氏、鹿子木孟郎氏に学び、1906年(明治38年)から2年間、鹿子木孟郎氏とともにパリに留学し、帰国後は、文筆活動を積極的に行い、「白樺」などでゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどの後期印象派を初めて日本に紹介しました。
1912年(大正元年)、岸田劉生、高村光太郎らとフュウザン会という若手画家たちのグループを結成し、その後、大阪美術学校の創立に参加しました。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍、同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。
1915年(大正4年)第9回文展に初出品した「朝」が初入選し、1916年(大正5年)第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選となり、1927年(昭和2年)第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となっています。
1959年(昭和34年)4月に加須市の名誉市民第1号に推挙されましたが、同年5月3日、74歳で世を去りました。 ( 加須市 近代洋画の旗手/斎藤与里の紹介より抜粋)
(19)酒井三良(さかい さんりょう 1897-1969)
明治30年 福島県大沼郡三島町生まれ。本名は三良(さぶろう)。別号に三良子がある。明治44年大沼郡西山尋常小学校を卒業後、上京して叔父のもとに身を寄せ、東京の中学校に入学。しかし、まもなく中学校を退学して故郷に帰った。大正3年再上京し、この頃坂内青嵐に師事。大正5年頃からは日本美術院の研究所で本格的に日本画を学びはじめた。大正8年第2回国画創作協会展に初入選、大正10年には第8回院展に初入選した。大正13年日本美術院同人となり、以後は昭和37年に第47回院展で文部大臣賞を受賞するなど日本美術院の中心的画家の一人として活躍した。大正13年末に沖縄に移住し、翌年夏に沖縄から千葉県市川に移住。昭和3年結婚して会津若松に移り、昭和7年に上野桜木町、昭和9年に本郷区西方に転居した。戦時下の疎開ののち、昭和21年から五浦の横山大観別荘に移り住み、昭和29年には杉並区久我山に新居を構えた。昭和44年、72歳で死去した。
参考記事:UAG美人画研究室(酒井三良)
(20)山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん 1893-1971年)
本名三郎、明治26年10月15日北海道松前市に生れ、大正3年東京美術学校西洋画科に入学し、同7年同校日本画科に転向、同12年卒業した。翌年松岡映丘の主宰する新興大和絵運動に参加し、この年第5回帝展に「秋二題」が初入選となった。翌年の「神苑春雨」についで出品した第7回帝展の「三熊野の那智の御山」が特選となり、帝国美術院賞となって一躍その名を知られるに至った。昭和2年第8回帝展出品の「緑庭」もつづいて特選となり、昭和3年第9回で推薦、翌4年審査員となった。また昭和6年7月には、中村岳陵、福田平八郎、横川毅一郎らと友交を主とする研究団体六潮会を結成した。昭和25年日本芸術院会員となり、同40年には文化勲章を受領した。作品は、復古大和絵調から次第に洋風表現に傾き、昭和7年第13回帝展「市場」にみられるような機知に富んだ近代感覚溢れる作品を生むに至っている。戦後は、斯様な傾向が更に助長され、明快な描写と色彩で、大和絵を見事現代に生かした蓬春芸術の本領を発揮した。代表作に「三熊野の那智の御山」「市場」「榻上の花」などがあり、著書に「日本画新技法」がある。
「山口蓬春」『日本美術年鑑』昭和47年版(84-85頁)

天日照
大東亜
武運長久(ぶうんちょうきゅう)
昭和19年4月
為坪内君
宮本三郎
宮本三郎1905年、石川県小松市に生まれる。旧制小松中学校に在学中に陸軍幼年学校を受験するも落ちたため中学校を中退、画家になることを志す。1922年(大正11年)に上京すると川端画学校に入り富永勝重、藤島武二に師事する。
宮本 三郎(みやもと さぶろう、1905年5月23日 - 1974年10月13日)は、日本の洋画家。金沢美術工芸大学名誉教授。石川県能美郡末佐美村(現・小松市)生まれ。
第二次世界大戦中はシンガポールの戦いを題材に『山下、パーシバル両司令官会見図』など戦争画も手がける。
太平洋戦争中には陸軍報道班員として従軍し、「セレベスの落下傘部隊の激戦図」、「山下・パーシバル両司令官会見図」などの戦争画に卓抜した描写力を示し、戦後は二科会の役割は終わったとして同会を離れ、同志と二紀会を結成、その中心的存在となって会の運営にあたった。昭和33年には社団法人日本美術家連盟の初代理事長に就任、会館建設に尽力し、美術家の社会的権利の擁護のためにも活躍した。晩年には的確な写実のうえに華麗な色彩をもった舞妓、裸婦の連作を制作して注目された。すぐれた素描力をかわれて新聞小説の挿画でも早くから活躍し、獅子文六作『南の風』(朝日新聞連載)、石川達三作『風そよぐ葦』(毎日新聞連載)などの挿画を担当、広く読者に親しまれた。

坪内正 (つぼうち ただし1909-1996)
広島県賀茂郡西條町(現在の東広島市)に生まれ。広島市の旧制広陵中学卒業後、東京美術学校(美學)に進学。
1935美學(現・東京芸術大学)油絵科を卒業後2年間研究科在学。修了後東亜宣伝工作研究所に入所し、1939年3月、内閣情報文化部文芸課勤務。共に国策の線に乗っての情報宣伝の仕事に従事して就職した。太平洋戦争が始まる前である。この時代、美學生は美術教師などに就職した。これは徴兵猶予を狙ってとも伝わる。坪内の就職はどうであろう。
太平洋戦争に突入後、働く部署はいわゆる「情報局」の内閣情報局に組織替えとなり、1944年4月の召集で職場を離れるまで総計6年半、内閣情報部もしくは情報局で文化部美術係を担当する。1944年は学徒出陣や美術教師など文系の出征が続いた年だ。この年、画家の熊谷登久平は戦闘機などの計器製造の国策会社に就職し軍役を逃れている。
坪内は華北で兵役に服すが、終戦後シベリアに送られ、情報局勤務歴のため4年半もの長い間抑留生活を送り、復員後画壇へ。、のち新日洋会常任委員として日展でも活躍し後進を育てた。
参考『写実から空想への軌跡 坪内正―人と作品 瀧 悌三』坪内正図録 収録


丸木俊 (まるきとし 1912-2000)
「原爆の図」などで知られる洋画家。北海道雨竜郡秩父別村に生まれる。旧姓赤松。生家は寺であった。
旭川高等女学校を卒業後、上京して女子美術専門学校(現 女子美術大学)に入学し、油彩画を学ぶ。1933(昭和8)年、同校を卒業。千葉県市川市市川小学校教員となる。37年4月ソヴィエト時代のモスクワに渡り、翌年4月まで滞在。39年ミクロネシア群島に渡る。同年第26回二科展に「白樺の林」で初入選。翌年の第27回二科展には「パラオ島民集会所」を出品。二科展には43年まで出品を続ける。41年1月から6月まで再度ソヴィエトに渡る。同年、画家丸木位里と結婚。45年8月、原爆投下直後、位里の両親が在住していた広島を夫婦で訪れ、被爆後の惨状を目にする。これをきっかけとして、その後夫妻のライフワークとなる「原爆の図」の制作が始まる。
『日本美術年鑑』平成13年版(227頁)参照
展示作は『ロンダ (スペイン)』1975年作。原爆の絵とは異なる、やわらかい光に満ちた作品。池之端画廊の鈴木弘子さん(女子美卒、俊の後輩)が気に入り「上野の都立美術館(府立美術館)で展示実績沢山あるから大丈夫よ」


大野五郎
1910(明治43)年2月13日、父大野東一、母幹の五男として東京府下北豊郡岩淵町(現在の東京都北 区)に生まれる。父東一は、当時の栃木県都賀郡谷中村の村長を務めていたが、08年に足尾銅山鉱毒 事件のために離村していた。青年期に及んで実兄で詩人であった四郎の影響もあって絵画に関心をも ち、26年、斉藤與里の紹介で藤島武二が指導する川端画学校に入学する。1928(昭和3)年、第3回一 九三○年協会展に「姉弟三人」など3点が初入選、第5回展まで出品した。この頃長谷川利行、愛 光、井上長三郎を知る。29年、同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けることになり、原色と太い筆致を特徴とする画風の基礎を形成することとな った。また、ここで田中佐一郎、中間冊夫、森芳雄、伊藤久三郎と知りあうことになる。30年に第 17回二科展に「風景」 「少女」が入選。31年、第1回独立美術協会展に「横向いた肖像」 「Nの肖 像」が入選、○氏賞を受賞した。この頃、兄四郎がバー 「ユレカ」を開店、店を手伝うようになり、 ここにあつまる小熊秀雄などの詩人たちとの交友がはじまる。42年横瀬喜久枝と結婚、44年には長 男俊介が誕生した。その間の43年に井上長三郎、寺田政明、愛光、鶴岡政男、糸園和三郎、松本竣 介、麻生三郎と新人画会を結成し、展覧会を翌年の第3回展まで開催した。46年に再興した独立美術 協会の準会員に迎えられるが、翌年同会を脱退して自由美術家協会に参加。64年には、同協会を離 れ、寺田政明、森芳雄、吉井忠とともに主体美術協会を結成した。以後、2005(平成17)年まで毎年 出品をつづけ、同協会の結成会員として象徴的な存在となった。また昭和期の史的回顧展に出品され ることが多く、88年に練馬区立美術館、広島県立美術館を巡回した 「愛光展 青春の光と闇」、91 年に板橋区立美術館にて開催された「昭和の前衛展 表現の冒険者たち」、同年に神奈川県立近代美 術館にて開催された「松本竣介と30人の画家たち展」、08年に板橋区立美術館で開催された「新人 画会展 戦時下の画家たち」等に戦前期の作品が出品された。その没後の同年4月に、「大野五郎一 画業八○年の軌跡」が、八王子市夢美術館にて開催され、初期作から05年までの作品67点が出品さ れた。その画風は、自ら語るように酒を愛し、豪放磊落の性格を表したように、赤い輪郭線を特徴と するフォーヴィスムの流れを汲んだものであった。
出典:『日本美術年鑑』平成19年版(366頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日(更新履歴)



