熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

武運長久(ぶうんちょうきゅう) 持病の眩暈が酷いので寝転がって作業

坪内正画伯の歓送会寄せ書きのくずし字が読めない私。

30時間ほど悩んだくずし字もあるが、ある程度は多分解読したかなぁ。

 

ご教示ご鞭撻を乞う

 

で、未明まで格闘した。

午後、上野公園、夫が通っていた上野中学の向かいにある文化財研究所の資料室へ行き研究員さんに確認をお願いしてあってるってことでホッとする。

池之端画廊での展示キャプションは寄せ書きメンバーの名前とそれぞれの簡単な説明を入れることになった。

そのための資料を文化財研究所でコピーをしていたら百円硬貨と千円札が次々と消えた。コピー代値上がりしていた。けど、廊下の電灯もかなり節約しておられて、日本、文化教養予算どうなっているよ的な。

https://www.tobunken.go.jp/index_j.html

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https://nichiyoukai.com/about/prof/pr16

 

歓送(かんそう)

坪内正君

 應召(応召  おうしょう)

 

 

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(右から)

①水田硯山(みずた けんざん 1902-1988)

画家。本名は美朗(よしろう)。大阪博労町(中央区)の貴金属商に生まれる。画家である兄の水田竹圃について学ぶ。南岳からは漢学を学び、大正7年(1918)京都に移って南画を研究する。のち日本南画院を中心に活躍し、帝展で三たび特選。後期印象派の影響をうけた山水画を描く。戦後は日展を中心に委嘱出品する。日本南画院理事・監事。

 

「水田硯山」『日本美術年鑑』平成元年版(268頁)
「水田硯山 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9977.html

 

②高田 力蔵(たかだ りきぞう 1900-1992)

1900年〈明治33年〉10月18日 - 1992年〈平成4年〉10月31日)は、日本の洋画家。春陽会、日本水彩画会。パリのルーブル美術館などの西洋の名画を模写したことでも知られる。

 

「高田力蔵」『日本美術年鑑』平成5年版(326頁)
「高田力蔵 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10440.html

 

没年月日:1992/10/31
分野:洋, 画家 (洋)
春陽会会員で西洋の名画の模写でも知られた洋画家高田力蔵は、10月31日午後10時25分、腹膜炎による心不全のため東京都板橋区帝京大病院で死去した。享年92。明治33(1900)年10月18日、福岡県久留米市に生まれる。川端画学校に学び石井柏亭に師事。この頃フランスの画家アルベール・マルケに私淑する。昭和2(1927)年第14回二科展に「岬端風景」で初入選。以後同11年まで連年入選。同11年ベルリン・オリンピック芸術競技に出品し銅賞を受けた。同12年渡仏し、パリのアカデミー・グランショーミエールに学ぶ。また、ルーヴル美術館で古画を模写し、同13年パリ日本美術家展にアングルの「泉」、ブリューゲルの「乞食の群れ」の模写を出品して日本大使館より奨励賞を受ける。同14年第二次世界大戦勃発のため米国を経由して帰国。同15年春陽会会員となる。同17年、日本の祭礼を主題とするシリーズ制作にとりくみ、同17年「相馬の野馬追い」、同18年「鹿島神宮御船祭」、同19年「福岡県大善寺鬼夜祭」を描いて春陽会に出品する。同20年4月、戦火で東京のアトリエを焼失して郷里久留米に疎開大分県九重山飯田高原、久住高原の自然に魅せられて連作を制作。同33年東京三越本店で個展を開き九重山群の諸作を展観する。同37、39年にも同店で個展を開き、皇居周辺の風景画を展示。同40年2度目の渡仏をし、ルーヴルで古画を模写するとともに同42年ジャック・マレシャルに油絵修復技術を学んだ。同年モスクワ、レニングラードキエフ等を経て帰国。同46年仙台市の依嘱でイタリアへ渡り、ローマ・ボルゲーゼ宮殿にある「支倉常長」像を模写した。その後も、同47、52、54、56、57年に渡仏して古画の模写を行なった。平成2(1990)年、昭和13年から描き続けてきた模写作品の所蔵品のうち20点を東京都北区に寄贈。これを機に、「北区北とぴあオープニング記念 第1回西洋名画模写作品展」が開催され、翌3年に北区北とぴあで「第2回西洋名画模写作品展」、同4年に北区滝野川会館オープニング記念として「第3回西洋名画模写作品展」が開かれた。手がけた模写作品には、石橋正二郎の依頼によるジャン・フランソワ・ミレーの「落穂拾い」、ターナーの「雨・蒸気・速力」、アングルの「トルコ風呂」、北区に寄贈したレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、ジャン・フランソワ・ミレーの「晩鐘」等がある。昭和51年より日本美術家連盟委員、同61年より平成元年まで同連盟監事をつとめた。

出 典:『日本美術年鑑』平成5年版(326頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「高田力蔵」『日本美術年鑑』平成5年版(326頁)
例)「高田力蔵 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10440.html(閲覧日 2025-10-01)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%8A%9B%E8%94%B5

 

③『私には読めない』 太平洋美術Xの中の人解読

③横堀角次郎 (よこぼり かくじろう 1897-1978)

号は木黄。明治30年2月17日群馬県勢多郡に生まれ、前橋中学から東京芝の正則中学校に転校し大正3年卒業した。卒業の年頃から油絵を描き始め、同級の椿貞雄と岸田劉生を訪ね、翌年の巽画会第15会展に出品した「自画像」で三等賞銅牌を受賞、また劉生の草土社創立に木村荘八、椿らとともに参加した。銅6年、劉生に従って鵠沼に転居したが、同12年の関東大震災により一時帰京後東京に戻った。この間、同9年に小石川の野島邸で最初の個展を開催。同12年春陽会第1回展に「鵠沼風景」「静物」を出品し春陽会賞を受賞、翌年の第2回展にも同賞を受賞して次年より無鑑査となり、昭和5年春陽会会員となった。また、大正13年には三岸好太郎、鳥海青児等と麓人社を結成、翌年は東大安田講堂の壁画制作に小杉未醒の助手として従事した。昭和18年半年間渡満し、熱河省、ハルピンなどで絵画指導並びに写生を行った。戦後は同30年欧米各地を、同47年アメリカ・メキシコを旅行、この間美術団体連合展(同22年、毎日新聞社主催)に出品。同27年に水墨画展(上野、松坂屋)を開催、同43年には中川紀元、宮田重雄、水谷清等と墨彩会を結成し同49年まで毎年ギャルリ・アルカンシェル(新宿)で水墨画展を開催したほか、同35年以降隔年で銀座資生堂画廊で個展を開催した。主要作品には、郷里の赤城山を描いた一連の作品(「早春の赤城」昭和23年等)の他、「川べり」(大正12年)「東大三四郎池」(昭和35年頃)などがある。

『日本美術年鑑』昭和54年版(326頁)

「横堀角次郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9656.html

 

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④『私には読めない』太平洋画会のXの中の人が解読

④濱地清松(浜地清松 はまじ せいまつ1885-1947)

 洋画家。現在の和歌山県東牟婁郡串本町に生まれる。明治34年(1901)、渡米してボストン美術学校に学ぶ。大正9年(1920)に帰国。大正11年ごろ、和歌山県新宮で新宮洋画研究所を開いている。大正14年、再渡米して、ニューヨークで活動する。翌年に渡仏して、サロン・ナショナルに入選。昭和2年(1927)に帰国。昭和3年、第9回帝展特選。以後、官展に出品を続け、新文展に無鑑査。昭和4年、第一美術協会設立に参加し、出品を続ける。
 代表作は「赤い帽子」(昭和3(1928) 第9回帝展特選)などがある。
戦争画との関連
 戦時中は中国中部に従軍している。
 戦争美術関係の展覧会では、昭和14年の第1回聖戦美術展に出品している。また、昭和16年の第5回海洋美術展、昭和17年の第6回海洋美術展に出品している。

https://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/maa/yasukuni/artist_hamaji.html

 

 

⑤小山周次 (こやま しゅうじ  1885-1967)
明治18(1885)年6月27日小諸市に生まれる。小諸高等小学校卒業後、小諸義塾に入学。木村熊二、島崎藤村、三宅克己らに学ぶ。丸山晩霞の内弟子をへて、日本水彩画会研究所に通う。日本水彩画会の創立に参加。二科会の事務をも担当。成城学園高等科美術教師を18年あまり勤める。後年紺綬褒章を受ける。
昭和42(1967)年12月18日逝去。享年82歳。

https://www.82bunka.or.jp/gallery/1999/05/post-14.php

 

⑥望月春江  (もちづき しゅんこう、1893-1979)

山梨県西山梨郡住吉村(現、甲府市)に生まれる。東京美術学校(現、東京藝術大学日本画科で結城素明に学んだ。1928(昭和3)年の第9回帝展と翌第10回展において特選を連続受賞して名が一躍世に広まる。後には文展日展の審査員をつとめ、日本芸術院賞を受賞した。一方、東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)などで教鞭を執り後進を育成した。本県への貢献も高く、山梨美術協会を結成するなどして、1975(昭和50)年に山梨県特別文化功労者として表彰された。

https://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/collection/japanese_modern_art/133.html

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E6%98%A5%E6%B1%9F

 

⑦中野和高 (なかの かずたか 1896-1965年)

明治29年愛媛県大洲生まれ。本名は和光。牧師だった父の赴任先だった宮城県仙台第一中学校を卒業、その後上京して白馬会洋画研究所で黒田清輝の指導を受けた。大正10年東京美術学校西洋画科を卒業、同年第3回帝展に初入選、昭和2年第8回帝展から3年続けて特選となった。ヨーロッパ遊学後は、1930年協会会員もつとめた。昭和5年からは帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)教授。昭和16年仲間と創元会を創立、戦後は創元会展と日展に出品した。昭和33年日本芸術院賞を受賞した。昭和40年、70歳で死去した。

https://yuagariart.com/uag/miyagi22/amp/

(UAG美術家研究所 中野和高と大正・昭和期の宮城の洋画家)

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%92%8C%E9%AB%98

 

⑧ 石井鶴三  (いしい つるぞう、1887-1973)

画家鈴木鵞湖の孫、画家石井鼎湖の三男、石井柏亭の弟として東京府下谷区仲御徒士町(現・台東区上野)に生まれる。洋画を不同舎にて小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び[、1905年創刊の雑誌『平旦』にウィリアム・ニコルソンの作品を模倣した自画自刻による木版画『虎』を掲載した。1910年に彫刻を学んで東京美術学校卒、1911年文展で「荒川岳」が入賞、1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、1919年、木版画『日本風景版画集』第9集(東京近郊)を、1920年木版画『日本風景版画集』第10集(日本アルプス)を刊行した。以降、日本版画協会の会長、理事長を務めている。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山大菩薩峠』や吉川英治宮本武蔵』の挿絵でも知られ、1944年東京美術学校教授。1950年日本芸術院会員、1961年日本美術院彫塑部を解散、1963年東京芸術大学名誉教授、1967年勲三等旭日中綬章受章。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E9%B6%B4%E4%B8%89

 

⑨『私には読めない』太平洋美術中の人が太田三郎のサインを見つける

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太田三郎(おおた さぶろう 1884-1969)

生誕は、明治17年(1884年)12月24日、愛知県西春日井に於て、枇杷嶋は名古屋向け青物の市場の地、三郎の生家も其の問屋の一つであったが、父が富裕にまかせて風雅に流れ、僊艸の雅号で絵(日本画)をかいたりして、産を破った。文雅と貧窮とを相続して、三郎は、17才で東京に奔り、画業を苦学した。黒田清輝に西洋画を学び、白馬会洋画研究所に通ったが、他方、日本画をも寺崎広業に習った。洋画家として地歩を占めた後も、折々日本画をものし、また洋画に日本画の気味・手法を交へることが有った所以である。日本画には、三郎をもじった「沙夢楼」の号を用いたこともある。洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。属した美術団体としては光風会を挙ぐべく、又、同郷の和洋画家・彫刻家・工芸家等と共に愛知社を組織したことは愛知県の美術振興に大いに寄与したものである。三郎は、大形作品のほかに、雑誌・新聞等の挿絵に軽妙の筆を揮い、川端康成『浅草紅団』・矢田挿雲『太閤記』のそれなどが代表作である。なお、挿絵類執筆には仮名「君島柳三」を使ったことも有る;之を別人と思う人がままいるのは誤解である。挿絵と共に注目するべきは、明治末・大正初の絵はがき流行の頃、『ハガキ文学』に関係して、スケッチ趣味を世に広めたことである。第二次世界大戦後は、思う所あって中央画壇を去り、郷里に帰住し、地方文化の向上を念として、知事桑原幹根の知遇のもとに、愛知県文化会館の設立に参画し、昭和30年(1955)、同館美術館創設と共に美術館長に任ぜられた。長老として展覧会の割当て等をよく裁いたけれども、同35年(1960)、病いを得て辞任した。むかしスケッチブックを手にして好んで散策した武蔵野のおもかげを僅かに残す玉川上水のほとりに戻り来って閑居、余生十年を得たが、小康の春日、写生に出たのが禍いし、病いを重くして死に至った。故人は、また文筆を善くし、著述が少くない。或いは抒情甘美・或いは叙事優雅なる画文兼作の書-『鐘情夜話』・『武蔵野の草と人』の類-は、之を悦ぶ人が少くなかった。

太田三郎」『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁)
太田三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9207.html

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『洋画家。君島柳三、沙夢楼とも名乗る。愛知県に生まれる。白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事するとともに、寺崎広業に日本画を学ぶ。明治43年(1910)、文展初入選。大正2年(1913)、文展三等賞。大正9年より大正11年に渡欧留学。大正13年より光風会会員。昭和8年(1933)、帝展審査員。昭和30年(1955)、愛知県文化会館美術館(現・愛知県美術館)館長。
 代表作は、「ビーヤホールの女」(明治43年 第4回文展)、「カッフェの女」(大正2年 第7回文展三等賞)などがある。留学後は、キュビスムフォーヴィスムに傾倒した。川端康成『浅草紅団』など挿絵も手掛けた。著書も多い。
戦争画との関連
 戦争美術関係の展覧会では、昭和12年の第1回海洋美術展、昭和13年の第2回海洋美術展に出品している。 (靖国の絵巻サイトより抜粋)」

https://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/maa/yasukuni/artist_oota.html

 

 

⑩ 木村 荘八(きむら しょうはち、1893-1958)

明治26年8月21日東京日本橋区に生れた。明治43年京華中学を卒業、文学演劇に関心をもつ多感な少年であつた。45年葵橋の洋画研究所に入り岸田劉生と交友、同年フューザン会を結成して当時としては革新的な、フォーヴ風な作品を発表した。翌年フューザン会は解散し生活社を起したが、大正4年更に岸田劉生等と草土社を創立した。草土社時代は劉生の影響をつよくうけ、精神主義的な傾向のつよい写実描写に入つていつた。この時代、二科会院展洋画部にも出品して、大正7年には院展で樗牛賞を受けている。大正11年草土社は解散、同年発足した春陽会に招かれて、客員として参加し、以来春陽会々員として、小杉放庵、中川一政らと同会の中心となつて会の発展につくした。「パンの会」「歌妓支度」「牛肉店帳場」「新宿駅」「髪を結う女」など代表的な作品が春陽会前期に描かれている。芝居、東京風俗などを扱つた作品が多く、独自の画風をみせている。戦後は浅草風俗「一の酉」などのほか、「窓外風景」「南橡風景」など、自宅周辺の風景を題材として一層観照を深めていつた。油絵のほか、挿絵、舞台装置、随筆と多才な面をみせているが、ことに挿絵では「にごりえ」「たけくらべ絵巻」「墨東綺譚」「霧笛」などのすぐれた作品をのこしている。西欧的な教養をもち、東京下町の人情風俗に限りない愛着をよせていた東京人であつた。著書に「風俗帳」「続現代風俗帳」「現代挿絵考」「東京今昔帳」などの随筆集があり、「東京繁昌記」は芸術院恩賜賞をうけた。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8929.html

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%8D%98%E5%85%AB

 

 

(11) 佐藤 ( ;  ; )『私には読めない』佐藤敬かなぁと

(11)佐藤敬 (さとう けい 1906-1978)

洋画家。大分県大分市に生まれる。上京して川端画学校洋画部で学ぶ。大正15年(1926)、東京美術学校入学。在学中の昭和4年(1929)、第10回帝展に初入選。昭和5年、在学のまま、渡仏。昭和6年、卒業。昭和7年、サロン・ドートンヌで入選、帝展で特選を受ける。昭和9年、帰国。昭和10年、帝展改組に反対して第二部会に参加、翌年の猪熊弦一郎らの新制作協会設立に参加する。戦後は渡仏し、フランスを中心に活躍した。昭和51年、勲三等瑞宝章
 代表作としては「ル・クルン(道化者)」(昭和7(1932) 第13回帝展特選)、「人間の壁(白)」(昭和39(1964))がある。ヨーロッパの現代絵画を吸収し、ピカソに影響を受けたキュビスムの作風から、抽象画へと移っていった。
戦争画との関連
 昭和16年、中国に従軍画家として赴く。翌年にはフィリピンに赴いている。これは美術界への監視を強める警察におもねるためだったという。昭和14年設立の陸軍美術協会に参加している。
 戦争美術関係の展覧会では、昭和18年の陸軍美術展(第1回)、昭和19年の陸軍美術展(第2回)、昭和20年の陸軍美術展(第3回)に出品しており、昭和17年の第1回大東亜戦争美術展、昭和18年の第2回大東亜戦争美術展に出品している。また、昭和19年の第8回海洋美術展に出品している。
◇参考文献
河北倫明監修 1989『近代日本美術事典』講談社
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館編  1993『藤島武二と9人の若き洋画家たち』丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
針生一郎ほか編 2007『戦争と美術 1937-1945』国書刊行会

東京国立近代美術館所蔵 戦争記録画(アメリカ合衆国 無期限貸与)
「クラークフィールド攻撃」(1942)
ニューギニア戦線-密林の死闘」(1943)

 

靖国の絵巻』よりコピペ

https://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/maa/yasukuni/artist_satou.html

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(12)野田九浦  (のだ きゅうほ 1879-1971)

東京下谷生まれ。4歳から父が税関長をつとめた函館で過ごし、函館商業学校で学ぶ。1895年(明治28年)に寺崎広業と共に上京し師事。1896年(明治29年)に東京美術学校日本画科に入学するが、美術学校騒動(岡倉天心排斥運動)により1898年(明治31年)に退学。白馬会研究所で黒田清輝に絵を学ぶ。正岡子規に俳句を学ぶ。1907年(明治40年)第1回文展で「辻説法」が二等賞受賞。同年大阪朝日新聞社に入社し、夏目漱石の「坑夫」の挿絵を描いた。1917年(大正6年)まで勤務。

1912年(大正元年)に北野恒富と大正美術会を結成。1917年(大正6年)第11回文展で特選。 1937年(昭和12年)、この年から始まった新文展の審査員に就任[1]。 1947年(昭和22年)に帝国芸術院会員となり、日展に出展。画塾煌土社を設立。金沢美術工芸大学教授。狩野探幽の研究でも知られた。1958年(昭和33年)には、宮殿(皇居)に装飾用絵画を納める。御紋付き木杯を賜る[2]。

 

明治12年<1879>-昭和46年<1971> 東京都出身
日本画家。東京の下町に生まれ、4歳の頃より函館で生活。1895年、寺崎広業に師事し上京。翌年東京美術学校東京藝術大学)に入学するも、岡倉天心の排斥運動により広業と共に退学。黒田清輝主催の白馬会研究所で学んだ後、1907年の第一回文展で「辻説法」が二等賞を受賞。同年大阪朝日新聞社に入社(1917年まで)し、夏目漱石の『坑夫』の挿絵を描いた。1917年「妙見詣」が文展特選に選ばれ、以降は官展を中心に活躍し、帝国芸術院会員をつとめた。1920年画塾煌土社を設立、1938年には日本画院の創立に参加し、後進の指導にも力を尽くした。金沢美術大学名誉教授。日展顧問。本名・道三。東京都出身。(お世話になることが多い神保町の山田書店さんのサイトより)』

https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/art.php?artist=%E9%87%8E%E7%94%B0%E4%B9%9D%E6%B5%A6&search_key=artist

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E4%B9%9D%E6%B5%A6

 

https://www.musashino.or.jp/museum/1002006/1002258/1002259/1003669/1003372.html

 

(13)辻永 (つじ ひさし、1884-1974 私が師事した先生が弟子だったりする)


明治17年(1884)2月20日、父の任地広島県に生まれ、水戸中学校を卒業、東京美術学校西洋画科に進んでいる。同級生に森田恒友山本鼎などがいた。黒田清輝、岡田三郎助の指導をうけ「飼はれたる山羊」(明治43年)、「無花果畑」(明治45)、「椿と仔山羊」(大正5)など、初期には山羊の画家として知られ、白馬会系の描写をさらに進めて、大正9年から10年にかけてのヨーロッパ滞在をへてしだいに風景画家としての明確な方向をとっていった。辻は少年時代からとりわけ植物に対する関心がつよく、樹木、花にひかれて日本各地を旅行し、日本の湿った風土の風景を描くことに専念していった。後年植物草花に対する関心は、『萬花図鑑』(12巻、昭和6年平凡社)、『萬花譜』(12巻、昭和32年平凡社)となって結実した。戦後、文展が文部省より離れて日展となり、昭和33年、社団法人日展となってからは、辻は理事長となって会の運営にあたり、日展の法王、と称されるほどに日展の中心的な存在となり、また芸術院においても大きな役割をはたした。昭和34年文化功労者、昭和39年には、勲二等瑞宝章をうけている。(「辻永」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(265-271頁)
「辻永 日本美術年鑑所載物故者記事」東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9365.html(閲覧日 2025-09-28)

 

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9365.html

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%B0%B8

 

(14) 神津港人 (こうづ こうじん、1889-1978)

明治22年12月、21日長野県北佐久郡に生れた。同35年長野県野沢中学に入学し、休日に丸山晩霞に絵を学んだ。同40年東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝藤島武二和田英作の指導をうけ、45年に卒業した。大正4年第9回文展に「電車」が初入選し、以後「信濃路」(12回文)、「凩」(4回帝)等を官展に発表した。大正9年農商務省商業美術研究生となり、英国に留学し、ロイヤル・アカデミー・スクールに学び、翌年パリ、アカデミー・ジュリアンに学んだ。フランス、ドイツ、スイス、イタリーに写生旅行をして大正11年帰国品を発表した。昭和3年官展出品を辞め、友人齋藤素巖の創立した構造社に加盟して絵画部を創設、絵画部主任となり、「雁来紅」(第2回展)、「百合花」「裸体習作」「豊穣」(第3回展)などを発表した。昭和7年にはロスアンゼルス第10回オリンピック大会に日本最初の芸術競技役員として渡米した。昭和10年松田改組に際して、盟友と意見を異にしたことから構造社を脱退し、個展によって発表したが、同14年には緑巷会を創立主宰した。毎年公募展を開催したが、戦後は緑巷会を創芸協会と改称し、昭和32年にはこれを第一美術協会と合併して副委員長となった。第一美術協会名誉会員、日本山林美術協会名誉会員、信州美術会顧問。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(287頁)  東京文化財研究所

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9669.html

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B4%A5%E6%B8%AF%E4%BA%BA

 

 

(15) 赤城泰舒(あかぎ やすのぶ   1889-1955)

 

明治22年6月30日静岡県駿東郡に生る。同37年一時神奈川県葉山に移り、翌年父の郷里福島県に帰住した。同39年出京して大下藤次郎の内弟子となり、水彩講習所と太平洋画会研究所に学んだ。同40年日本水彩画会研究所新設と共に同所に転じ、大正2年まで同会幹事をつとめながら修業した。明治42年第3回文展に「高原の朝」が初入選し、その後文、帝展、二科展、光風会展、日展等に多くの水彩画を出品した。大正2年同志と共に日本水彩画会を創立し、同7年には光風会々員に推され、昭和18年文展の審査員となつた。また大正10年から長い間私立文化学院の教師をつとめ、昭和17年以来女子美術専門学校の講師となつて後進を指導するなど美術教育のためにもつくした。著書に「水絵の手ほどき」(昭和4年、博文館)がある。

出 典:『日本美術年鑑』「赤城泰舒」『日本美術年鑑』昭和31年版(150頁)
「赤城泰舒 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8909.html

 

『赤城泰舒(1889-1955)あかぎ・やすのぶ
明治22年静岡県駿東郡長泉町生まれ。沼津中学を病気で退学し、明治37年療養のため神奈川県葉山に移り、療養中に水彩画に親しんだ。明治38年一家で父親の郷里・福島郡塩川町(現在の喜多方市)に移り住んだ。明治39年上京して大下藤次郎の内弟子となり、水彩講習所と太平洋画研究所に通った。明治40年創立された日本水彩画研究所の幹事となり大正2年までつとめた。明治42年第3回文展に初入選、その後、官展、二科展、光風会展などに出品した。明治44年から水彩画の雑誌「みずゑ」の編集にあたった。大正2年日本水彩画会の創立に参加。大正7年光風会会員となった。大正10年文化学院の創立に参加し、絵画科の担当を昭和16年までつとめ、昭和17年女子美術学校講師となった。昭和18年新文展審査員となった。昭和30年、66歳で死去した。( UAG美術家研究所)

https://yuagariart.com/uag/fukushima32/amp/

 

(16) 石井 柏亭(いしい はくてい、1882-1958)

洋画家。父鼎湖に日本画を、浅井忠に洋画を学ぶ。明治34(1901)年自然主義を標榜する无声会、翌年太平洋画会に参加。37年東京美術学校(後の東京芸術大学)洋画科に入学するも、翌年中退した。40年森田恒友山本鼎と雑誌『方寸』を創刊し、創作版画運動を先駆した。大正3(1914)年二科会の創立に参加。昭和10(1935)年帝国美術院会員となり、二科会を離れて同志と一水会を創立した。堅実な自然主義的な画風の作品を残し、水彩画の発達にも貢献した。代表作に「草上の小憩」等。彫刻家の石井鶴三は弟。

(「近代日本人の肖像」国立国会図書館の電子展示会より)

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6349/

 

『1882年(明治15年東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で[1]、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾[2]。

1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。1897年(明治30年)浅井忠に入門し、油絵を学び、1900年(明治33年)に結城素明らが自然主義を標榜して結成した无声会に参加、新日本画運動を推進した。また、中村不折にも師事しており、1902年(明治35年)に結成された太平洋画会に参加。/Wikiより抜粋』

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%9F%8F%E4%BA%AD

 

(17)荒井龍男 (あらい たつお 1904-1955)

中津市に生まれ、幼くして家族とともに朝鮮に渡り、独学で絵を修得、急逝するまでの23年間に次々と問題作を発表し、常に日本洋画壇の先頭に立って活躍した。

昭和7年に二科展に初入選して画業を開始した荒井は、昭和9年にはシベリア経由で渡仏し、デュフィやザッキンのアトリエを訪問して指導を受けた。帰国後は、東京に居を定め、昭和12年に山口薫、長谷川三郎、村井正誠、難波田龍起らと自由美術家協会(のちに自由美術協会と改称)を設立するが、昭和25年、左翼的リアリズム派とは同調しかねるとの理由から、山口薫、村井正誠、小松義雄らとともに自由美術協会を脱退、同年モダンアート協会を結成した。この年を境に自然形態は簡略化され、詩的な抽象へと画風が変化していった。

昭和27年には米国へと旅立ち、昭和30年に帰国するまで、ニューヨーク、パリ、サンパウロなど各地で個展を開催し好評を博した。その後の活躍も期待されたが、昭和30年の帰国後、同年ブリヂストン美術館で開催した個展の直後、ガンのため急逝した。

(UAG美術家研究所 異色の抽象画家・荒井龍男と昭和期の大分県の洋画家 より)

https://yuagariart.com/uag/oita37/amp/

 

(18) 齊藤与里 (さいとう より、1885-1959) かなぁ( ;  ; )

 本名 齊藤 與里治(よりじ)。洋画家。

 斎藤与里は、1885年(明治18年)に現在の加須市下樋遣川に生まれました。父は村議会議員を務めた村の名士で妻、伏代(鳥取県佐賀県知事などを歴任した香川輝氏の長女)との間に二男一女を授かりました。
 1905年(明治38年)京都に出て、浅井忠氏、鹿子木孟郎氏に学び、1906年明治38年)から2年間、鹿子木孟郎氏とともにパリに留学し、帰国後は、文筆活動を積極的に行い、「白樺」などでゴッホセザンヌゴーギャンなどの後期印象派を初めて日本に紹介しました。
 1912年(大正元年)、岸田劉生高村光太郎らとフュウザン会という若手画家たちのグループを結成し、その後、大阪美術学校の創立に参加しました。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍、同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。
 1915年(大正4年)第9回文展に初出品した「朝」が初入選し、1916年(大正5年)第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選となり、1927年(昭和2年)第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となっています。

 1959年(昭和34年)4月に加須市の名誉市民第1号に推挙されましたが、同年5月3日、74歳で世を去りました。 ( 加須市 近代洋画の旗手/斎藤与里の紹介より抜粋)

 

https://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/shougai/kazonoijin/saitouyori/6484.html

 

(19)酒井三良(さかい さんりょう 1897-1969)
明治30年 福島県大沼郡三島町生まれ。本名は三良(さぶろう)。別号に三良子がある。明治44年大沼郡西山尋常小学校を卒業後、上京して叔父のもとに身を寄せ、東京の中学校に入学。しかし、まもなく中学校を退学して故郷に帰った。大正3年再上京し、この頃坂内青嵐に師事。大正5年頃からは日本美術院の研究所で本格的に日本画を学びはじめた。大正8年第2回国画創作協会展に初入選、大正10年には第8回院展に初入選した。大正13年日本美術院同人となり、以後は昭和37年に第47回院展で文部大臣賞を受賞するなど日本美術院の中心的画家の一人として活躍した。大正13年末に沖縄に移住し、翌年夏に沖縄から千葉県市川に移住。昭和3年結婚して会津若松に移り、昭和7年に上野桜木町、昭和9年に本郷区西方に転居した。戦時下の疎開ののち、昭和21年から五浦の横山大観別荘に移り住み、昭和29年には杉並区久我山に新居を構えた。昭和44年、72歳で死去した。

参考記事:UAG美人画研究室(酒井三良)

https://yuagariart.com/uag/fukushima28/amp/

 

(20)山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん 1893-1971年)

本名三郎、明治26年10月15日北海道松前市に生れ、大正3年東京美術学校西洋画科に入学し、同7年同校日本画科に転向、同12年卒業した。翌年松岡映丘の主宰する新興大和絵運動に参加し、この年第5回帝展に「秋二題」が初入選となった。翌年の「神苑春雨」についで出品した第7回帝展の「三熊野の那智の御山」が特選となり、帝国美術院賞となって一躍その名を知られるに至った。昭和2年第8回帝展出品の「緑庭」もつづいて特選となり、昭和3年第9回で推薦、翌4年審査員となった。また昭和6年7月には、中村岳陵、福田平八郎、横川毅一郎らと友交を主とする研究団体六潮会を結成した。昭和25年日本芸術院会員となり、同40年には文化勲章を受領した。作品は、復古大和絵調から次第に洋風表現に傾き、昭和7年第13回帝展「市場」にみられるような機知に富んだ近代感覚溢れる作品を生むに至っている。戦後は、斯様な傾向が更に助長され、明快な描写と色彩で、大和絵を見事現代に生かした蓬春芸術の本領を発揮した。代表作に「三熊野の那智の御山」「市場」「榻上の花」などがあり、著書に「日本画新技法」がある。

「山口蓬春」『日本美術年鑑』昭和47年版(84-85頁)
「山口蓬春 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9341.html

 

https://hoshun.jp/hoshun/

 

昭和19年4月11日

於 市ヶ谷会館 (會館)

日本美術報国会

有志

 

 

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天日

(天日照)

大○○(大東亜)

武運長久(ぶうんちょうきゅう)

昭和19年4月

為坪内君

宮本三郎


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