熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

篠原薫 (しのはら かおる1888-1987 ) 東理次良 (かんり つくなが 1903-1970)メモ再録など

 

 

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右から篠原薫 上機嫌な熊谷登久平 (谷中小学校や根岸小学校など)谷中美術教室で子どもたちを指導したことでも有名な安波新吉 富田温一郎

 

安波新吉は戦後学童への絵画指導でも有名な方で、私の遠い縁戚の石塚太喜治(東金)を調べている中で並んでいることがあった。が、今は谷中美術学校を覚えている方はいるのだろうか。

 

 

『昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉 1996年 芸術新聞社』我が家にもこの写真があります。

なお、文中に安波新となっていますが、正しくは新吉。

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篠原薫のことを調べていて『洋画商 長谷川仁 著 日動画廊, 1964』に以下の一文を見つけたがそれ以降はなかなか

 

『さて、画廊創業といっても、扱う画家が一変するわけではない。自分の力のおよぶ範囲でその間口を拡げていったものの、だいたいがいままでに知った作家の延長である。そのころ、私のカツギ屋画商時代に横浜で知りあいになった篠原薫という男が、ひょっこり店にたずねてきた。「いっしょに商売をさせてくれ」というのである。
彼は船員あがりで、小さな喫茶店を横浜でやっていたのだが、絵が好きで当時、白日会に出品しており、その旗頭の富田温一郎さんをたいへん尊敬していた。それで、彼は富田さんの四号の『バラ』の絵をもって来て「これこそ玉のような作品だ」と賛嘆する。

なるほど、そんなものか"と壁にかけてわが最高の作品 ときめこんだりした。そのくらい、私はまだ画壇事情にも通じていなかったのである。』

『洋画商 長谷川仁 著 日動画廊, 1964』

 

 

『戦災直後の(終戦)團子坂風景 昭和22年秋作画 昭和33年秋補筆』

【篠原薫 しのはら・かおる】「1888年(明治21年)香川県生まれ、香川工芸学校に学ぶ、白日会委員、日本美術家連盟会員、日展入選、白日会展で白日賞、中沢賞受賞、戦前戦後を東京都台東区谷中、谷中小学校の坂上で暮らし、近隣画家たちと交流した。本作は谷中小学校の屋上から団子坂方面を描いたと推測できる。

 

昭和40年代に葛飾区青戸へ転居。晩年は千葉県流山市江戸川台へ。

昭和62年千葉県流山市で逝去、享年99歳。主に、日展、白日会展で活躍した昭和の実力洋画家である。

「20世紀物故洋画家事典」美術年鑑社刊 参考

 

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東理次良 (かんり つくなが 1903-1970)

 

1903(明治36)年~1970(昭和45)年

釧路町(現・釧路市) 生まれ

 

釧路に生まれ、上京して川端画学校に学び、国画展、日本 水彩画会、白日会などで作品を発表。白日会会員。戦後は日展にも出品した。

白日会章の八咫烏は東理次良が清書したもの。

青空画会(現釧路美術協会)黎明期に東京から賛助出品して 協力するなど、最も早い時期から釧路の美術界に貢献した一 人である。

釧路市立美術館資料参考

(釧路市幣舞町4番28号 釧路市生涯学習センター3階 0154-42-6116)

 

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血中酸素 98

機械脈80

脈実測74 飛んでる

体温脇36.9

体温額34.3

血圧154-74