知人のお祖母様の父親が間宮武峰という日本画家で、間宮林蔵の家督を継いだ方は浅草の方なのでそれもありかな。的ですけど、びっくり。
↓知人のお母様、間宮武峰の初孫の為に描かれた初節句の屏風。だそうです。
お雛様は残念ながら空襲で失われ。
知人というのは義父の画仲間村上鉄太郎のお孫さんで、雑談で唐突に間宮林蔵の系列に間宮武峰という日本画家がいて、その娘が義父の友人の妻で、つまり知人の祖母で、その祖母の弟に日本画家の間宮正がいるとか。
その間宮正には私が出入りしている日本画院の客員時代があり、世の中狭すぎる。
間宮正は戦前に谷中眞島町1-2にあった昭和アパートに住んでいた。
そこは現在の谷中2丁目で村上鉄太郎が学んだ太平洋美術学校の極近所。我が家の近所。
間宮林蔵と義父が尊敬していた渡辺華山は交流があり……
また私が別件で交流している女性は渡辺華山の3代目の渡辺華石の孫だし、その渡辺華石の弟子の佐藤華岳斎は義父と同じく岩手県出身で、南部の殿様が世話をしてくださっていた北斗会で一緒に活動してて、 そこ佐藤華岳斎は渡辺華石が使えていた松平伊豆守家こと、大河内子爵邸に住み込んでて、その大河内子爵の息子2人が義父と同時期に洋画家で交流があり、白日会の会合も大河内家でやったこともあったりする。
『間宮林蔵の養子鉄次郎孝順の実家について』
https://blog.goo.ne.jp/tanbo_jyunrei/e/e965edb0a70356239c22c78b730b90a0
日本画家
間宮武峰 間宮正 間宮林蔵→ 間宮鉄二郎(浅草の青柳家から)
間宮正の開戦前の住所『下谷區谷中真島町1-2 (現在の谷中2丁目)
https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke/807066.html
↓Wikiの浦和画家一覧
『間宮 鉄二郎(まみや てつじろう、天保2年(1831年) - 明治24年(1891年))は、幕末の幕臣(新規旗本)。諱は孝順。間宮林蔵の跡目を相続した。
生涯
浅草の蔵手代青柳繁右衛門の次男として生まれる[1]。天保15年(1844年)3月、林蔵の跡を相続し、間宮孝順と名乗り普請役に任ぜられた。安政2年(1855年)樺太を巡察し、文久元年(1861年)箱館奉行支配調役、慶応3年(1867年)には広敷番頭となった。維新の後には明治新政府に出仕した。Wikiより』
https://taifuten.com/artist/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%AD%A3/
『間宮正
マミヤ タダシ(Mamiya Tadashi)
1911 - 1984
臺展第6-7回(1932-33)
本籍埼玉 。曾入選第6-7回(1932-33)臺展東洋畫部,入選作品分別為《山邊嬉雀》及《庭園之秋》、《寧靜的村落》,畫作簽名似以「正」落款外加一方印。間宮正之父武峰,亦是一名日本畫家,根據1920年的《帝國繪畫排行榜》,武峰被歸類為「獨立大家」(不曾出品文展帝展的優秀畫家),年47,地址「埼玉縣北足立郡蕨町66」,流派「寫生」,擅人物與花鳥畫。間宮正則曾名列《大日本畫家名鑑》,明治44年(1911)生,師承野田九浦,擅花鳥畫,地址「(東京)下谷區谷中真島町1-2 昭和公寓」。此外,間宮正1930年入選第2回聖徳太子奉賛美術展及第11回帝展,1931年入選第12回帝展,1934年與福田豐四郎等人成立新日本畫研究會(1938年改名新美術人協會),1936年入選秋之文展監査展,1943年入選第6回新文展等等,除了繪畫創作的成績斐然之外,顯然以東京為活動範圍,來臺是因服役,根據1932年的臺展初入選者報導:「間宮正是臺灣歩兵第一聯隊一等兵,年22歳(略)出品兩件作品,在聯隊長的官舎僅花3天便完成」。3天便完成兩幅日本畫且都獲入選,可見實力不淺。戰後也仍活躍於東京畫壇,直到1984年逝世。』