義父の熊谷登久平のことを調べていくなかで、関係者さんを探す年月。
白日会の会友同期で共に短歌の会「まひる」を創立した村上鉄太郎画伯のお孫さんに連絡がつき、互いに持っている情報交換をしている。
で、白日会100周年が近づくコロナ禍前に偶然熊谷登久平を知識として知る白日会事務局の先生と連絡がついており、資料協力をする話しもついていたここ数年。
で、村上鉄太郎画伯のご遺族の連絡先がわからないとお聞きして、えっ私知ってる返すと「白日会では村上鉄太郎先生は今も語り継がれる中興の偉人なんですよ」と紹介を求められて一緒に行こうとなっていたけれどコロナ禍は続く。
でも100周年に向けての時間は刻々と減っていく。
なので、ワクチン5回目接種し、ご遺族宅にお邪魔して資料を見せていただきましたら、出てくる出てくる。
よく、ここまで守ってくださった的な。
ありがたや。
村上鉄太郎画伯は義父たちと作っていた冊子に舞台美術について文章を残しておられて、舞台美術をやっておられたのは知っていたし、お孫さんからある程度教えて頂いていた。
熊谷登久平と長谷川利行たちが浅草演劇の舞台裏に遊びに行ったりできていたのは村上鉄太郎画伯の縁だろうなと想像していたけど、マジそうだわ。
今回、浅草生まれ浅草育ちの村上家、映画館、芝居小屋の「おせんにキャラメル、アイスクリーム」などを売るテキ屋の流れの家だったと知った。
また村上鉄太郎画伯は義父たちが戦争画を好まず、白日会を抜けていったけれど残り、戦争画も描き残しておられるが、そのための資料も半端なく。
美術史、演劇史、戦争資料などがどんどん出てきて、私もうビックリただでさえ少ない語彙力喪失。
当時の資料はほとんどモノクロ。
見せていただいた資料からは1935年当時の色が溢れ出てくる。
戦争画にしても写真部もあったけれど、その素材を画家に描かせトリミングされカラーになり大画面となる。
その素材を活かす絵描きの欲はあるかもしれない。
「まひる」の画仲間はそれぞれの意志で戦時下を生きられる政治力のある家庭の子息であるも、時代の流れの中でそれぞれの選択をして、病死、栄養失調死などで画家の道から外れていった。
栄養失調死説もある、まひるの仲間で尖っていたと思われる無縁寺心澄(むえんじ しんちょう 本名・藤井茂樹 1905 – 45)の遺作展の新聞記事も、村上鉄太郎画伯の遺品から出てきて、来年千葉市立美術館で無縁寺画伯展があるんだよなぁと、そちらとも情報交換をしているので不思議な縁というか。