大正12年に浅草でうまれた義母は数日後、首が座らぬうちに関東大震災に遭遇し、火の海を背負われて逃げたという。
皇居に出入りする植木職人だった義母の父親は何もかも無くし、大事にすると求める人がいたので義母を売り残った家族と深川區の被災者住宅に住む。
義母を買った家に諦めていた実子が授かり、義母はお金をつけて返され、また売られる。
売られた先には何故か実子が授かるので縁起が良い子と買い手はどんどん良い家になり、習い事も受けられ大事にされたが実子が授かりある程度育つとまた返される。
思春期を過ぎた義母はもう売られるのは嫌だと両親に訴えて、当時の女性としては高身長だったのをいかし浅草の女剣劇の男役となった。
その劇団は中国に渡り義母も大陸へ。
義母の実家は義母で得た資金で災害に強い石屋の権利を買い家業としたが、東京大空襲で何もかも失う。
義母は北京で東京壊滅との情報を得て実家に手紙を出し続けるも返事はなく終戦を迎える。
義母は敗戦後の混乱期を北京で過ごし、帰国するも実家は影も形もなく、山形で芸者の真似事をして食い繋ぎ、山形新聞の服部会長のお気に入りとなり、その親友の熊谷登久平と出会い「服部さんは奥さんいるけど私は独身だから」と、戸籍まで見せられて口説かれ落ちた。
東京の家族も探せると熊谷登久平宅に一緒に行くと、そこには登久平のハーレムがあった。
し、登久平を学生時代から支え続けた内縁の妻もいた。
義母強い。
昨日、義母の誕生日に気仙沼のリアス・アーク美術館のツイートに義父、熊谷登久平の絵の額縁の修復の様子がアップされた。
亡き義母と遺族の願い、登久平ゆかりの地の美術館収蔵が一つ叶った。
おかーさん褒めてください。
https://twitter.com/riariariabi/status/1563784039236276224?s=21&t=hN946hFWklcVcEP6KMK_9g
倉庫で朽ちてしまうかもとずっと気にしていたから嬉しくて嬉しくて泣いたら焦った夫が「デザート食べといで」とお小遣いをくれたので気仙沼出身の方が経営している近所の東北基地エールのカフェユエで福島イチゴのカキ氷を食し。
マスターに義父の絵がリアス・アーク美術館に入った喜びを伝えた。
なんかここ数日夫から「甘いもの食べといで」とか言われてお小遣いをもらっている。
「帰りにウエスト買ってきて」がつくけど。
ウエストはタバコ。
一昨日はよみせ通りの九州堂でカボスのミックスソフトクリーム。
コロナ禍でなければ九州は熊本の熊谷登久平が滞在した人吉に調べに行っているはずだった。
その後水害が人吉を襲い、訪問の予定が立たないまま今に至る。