熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

ソラナックス

ソラナックスの処方に足立区に通っているのですが、今は精神状態が良くなくて、日暮里駅のホームに立っていると誰かに押される感じがして吐きそうになりながら病院に行っているのですが、ここ暫く色んなことがありすぎて、甘え過ぎの自覚はありますし、もっと大変な人は沢山おられるのと知ってはいますが、飲まないと日常生活が出来ないのです。

で、手元にはあと少ししかなく、数日で切れます。

かと言って足立区まで処方に行く気力がなく、家庭医は心療内科が出すものだと言って処方してくれないので、切れたらどうしようと不安です。

市販薬で似たようなのはないのでしょうか。

 

母が認知症になった時に嫡子の弟にお前のせいだと責められ怒鳴られ、母の癌などで親殺しと責められ葬式参列は許されましたけど、庶子のくせに親殺しとして納骨なと一切許されず今に至ります。

介護の頃からソラナックスなしでは日常生活を送るのが難しく、今は夫に熊谷家に寄生している立場ですからあまり飲まないようにしています。

でも、どうしても必要な時があり、ここ数年不安定で死への願望が突然湧いてくるので、複数の薬を飲んで眠るのが唯一の対処策なのです。

 

私には、やるべきことはあると勝手に思い込んでいますが、今私がやることが失礼だと反感を呼び、怒鳴られたり注意を受けることが、私の器では耐えられるものではなくなってきています。

 

何か良い市販薬はないでしょうか。

 

 

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BE%E3%83%A9%E3%83%A0

 

一部夫の血縁に誤解がありますが、私は夫の側にいて世話をするために求められて再婚相手に選ばれた女であり、相続人ではなく、相続人さんは他にいます。

そのため、夫に何かあつたら、私は熊谷家から籍を抜きを出て行く話がまとまってます。

 

私に求められているのは私か大好きな夫の相手と熊谷登久平の遺品の調査と整理で、その代償として衣食住をあたえられております。何度も書いておりますが、熊谷家には感謝しております。

 

数年前から熊谷登久平関係を私が勝手にやり、熊谷登久平の生家に無断でやって迷惑をかけているとの話を頂きましたが、私は申し訳ございませんが良かれと思い込んでおりました。

洋画家は死後50年が生き残りのリミットだとの説もあり、私はそのつもりで動いておりました。

本家を無視した自覚はありませんでした。

ご挨拶にきちんと伺う予定で、一族にも先代の英三さんの13回忌に挨拶をさせて頂く予定でした。

 

本家の先代の英三さんの残された資料には感謝しかありませんし、義父の我儘で弟さんの広助さんがご苦労をされたことには御恩しかありません。

また、一関の義父の従弟の平沢一男さんが義父の死後に困窮してい遺族を援助されてくださっていたことも感謝しかありません。

 

 

熊谷登久平は一族の誇りかもしれません。分家の次男の馬の骨の嫁である私が今でしゃばっていること、100年以上支えていた血族の方には生意気に思われても仕方ないとは、理性では理解しております。

本家に迷惑をかけている分家の次男の嫁、しかも子を産んでおりませんので、やってはいけないことかもしれません。

熊谷登久平は生家である本家のものだという感覚が登久平の次男の夫である寿郎にはありませんでした。

昔、登久平亡き後に今いる土地も義父の親戚が回収しようとしたことがあります。そのため熊谷登久平の嫁(義母)が本家に対して警戒したことがありますが、戦前の戸籍制度の一族とはそういうものです。

私が暮らしていた明石の農村でもありました。

 

ここ数年、私はわきまえが足らないとのご注意を頂く機会も増えましたが、私は礼儀作法ができておらず、仕方ないと恥じつつも、私の感覚での画家仕事50年は、画家でありつづけるための大切な期間だと私は考えて行動をおります。

 

「田崎暘之助 「野ざらしの詩」の周辺 取材日記から


「いや、才能を育てるとか世間をうまく渡るとかは一流二流の評価とはおのずと違うのではないか。結局、その画家が死んで五十年たってみて、名前が残り歴史の中になにかの大きさで残る事実で評価が決まる。利行死後四十年の今日、利行が見直されている事実を考えて評価すべきだ。一流か二流かは、今後十年が勝負じゃないのか。しかもぼくの考えでは、利行の声価は、今後の十年でさらに大きくなるのでないかと確信する」

長谷川利行画集』
昭和55年6月10日発行
編集 長谷川利行画集刊行委員会
発行 株式会社 共和出版
販売 株式会社 大和書房」

 

幸いなことに熊谷登久平の次男の相続人は私ではありません。夫の寿郎亡き後は私は熊谷家をでることになつております。

私はホームレス予備軍です。

 

夫の相続人と夫亡き後を定期的に話すのも疲れます。

 

なので、今はありがたくも夫に衣食住を与えられている恩返しのつもりで、熊谷登久平展をやろうとしております。それは子を授けられなかった夫と義兄、熊谷登久平の子を産めなかった衣子さんへの供養になると私はかんがえているのです。熊谷家の子を産めなかった私の、名と義父の功績を残す、確かに暴走で本家に迷惑をかけてますが、ゆるしてもらえないでしようか。

 

 

私は父親が失踪中に作った婚外子で戸籍もなかったので、存在してなかった子で恥ずかしい、熊谷家に相応しく無い自覚はあります。

 

ですが、熊谷登久平の最後の直系な寿郎が生きているうちに登久平が愛し晩年に帰りたがっていた岩手県で個展を開こうと私が右往左往していることを、あちこちから本家に許可をえたのかと言わず許してもらえないでしょうか。 

 

もしくは自殺だとバレない一般の人たちに迷惑をかけない方法や、なるべく痛く無いやり方やメンタリストの人が公開してくれないかと。

 

流石に夫は離婚話しをし始めた。

夫の血族で評判が悪いので仕方ないかな。夫の最優先は熊谷家なので傷をつけるのは耐え難いのは理解できる。

私は熊谷家に対して成果がない。