熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

コロナウイルスが強く、色々中止となっていく 慰霊祭

上野公園で開催される予定であった東京大空襲75周年の慰霊祭が中止となった。
もう、当時を経験した人の多くは鬼籍に入られており75周年は1つの区切りだと考えていたので、残念だ。
私が空襲関連を調査していた頃はまだ戦後50年前だったので、色々と生々しい話を随分と聞いたが、それでも当時は50年という年月で風化した記憶や資料を惜しんでいた。
あの頃はまだ東京のあちこちに空襲の跡が残っており、空襲で焼け焦げた電柱も台東区に残っていた。それのレプリカを江戸東京博物館早乙女勝元先生たちが作り常設展に展示していたが、その電柱を残した男性もご健在であった。

浅草寺関東大震災の時に焼け残った。
本堂は幕末の大火事の時にも焼け残り、その後数度あった洪水にも沈まず江戸っ子たちの信仰を集めた。
関東大震災の時、男たちは女子供を本堂に逃して決死の火消しをおこない守り切った。
その事が書かれた碑も昔は浅草寺の中にあった記憶だが年末から探しているが見つからない。
記憶違いだろうか。神田区のケースを重ねたのだろうか。

東京大空襲の時も人々は浅草寺の加護を求めて逃げ込み。空から降る焼夷弾に対して守る男たちは門や時の鐘、池のそばのお堂などは守り切ったが、本堂には一気に焼夷弾が落とされ地獄絵図だったと聞いている。
地獄絵図は浅草寺だけではない。
その時にB-29から焼夷弾を落としたハリー・ミッシェルは溶鉱炉を覗いているようだったと話してくれた。
戦後50年の頃はB-29搭乗員たちも沢山生存しており彼らには彼らの言い分があると私は思い知った。

降り注ぐ焼夷弾、防火建築である松屋の一部には火が入り、外を逃げ惑う人々は窓から助けを求めながら焼け死んでいく人々を見た。
知人の祖母は隅田川に飛び込み足の下に多くの人たちの遺体の肋骨がポキポキと折れる感覚が忘れられないと話していた。
母の友人のご主人は浅草の黒塀の中に住う坊ちゃんだったが雷門が燃え落ちるのを見たと言っていた。

この雷門は関東大震災からの復興記念の時に松坂屋が奉納したもので、あまりにも短い間だけほ存在だったために仮設の雷門と書き残されている。
しかし浅草寺が名古屋の松坂屋での本尊ご開帳を許したほどの出来であるので本建築であった説もある。
だが残念ながら上野の松坂屋と名古屋の松坂屋、共に空襲で焼けたために資料が現存しない。

戦後50年の頃、東京にはあちこちに空襲の痕跡があった。慰霊碑も多くあったがバブル期後も続く再開発や関係者の死により由来が分からなくなっていくものも多かった。
それを纏めている人々もおられたが、彼らの多くも亡くなられた。

人が自然発火をする火焔地獄。
あまり想像したくはない。
が、忘れてもいけないと私は思う。

この忘れてはいけない、忘れないでほしいと訴え続けている石碑が我が家の裏にある。

墨田区の江東橋一丁目の慰霊碑だ。
江東橋一丁目周辺は思いっきり焼けた。避難先であった旧制両国中学に逃げ込んでも地獄、沢山の人々が助かった錦糸町公園までは普段なら遠くないが火の海の中ではたどり着けない。
両国の被服廠跡地に逃げ込めたら助かるが、多くの人々が焼死した関東大震災の記憶が人々に残っている。

生き延びた人々に話を聞いて回ったが、生死を何が分けたのか分からないケースも多かった。
その生き延びた人たちが台東区に石碑を建てた。
我が家の近所の人たちももう由来を忘れている。
毎年供養に来ておられた人も減っていき、夫の記憶では最後の一人が数年前まできておられた。
だが、去年私が探した時、その方は入院しておられてもう私が話をうかがえる状態ではなかった。

東京大空襲の江東橋一丁目の慰霊碑は台東区谷中の瑞輪寺の墓地の中にぽつんとある。
供養料を払いつづけておられた方は去年はもうお会いできない状態だった。

碑は無縁様として砕かれてしまうのだろうか。
今年の慰霊祭でなんとか後世に繋げないかと考えていたが、私は無力だ。