熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

あれこれ探して落札して外れだったり

義父が大正10年に神田区の錦町にあった中央大学に入学し、関東大震災まで楽しい学生生活をしていたのは確かなんだけど、谷中の熊谷家に残っている写真では何年に何処で撮影したのかわからないし、関東大震災後図書館だけが焼け残った中央大学ではどのように学んだのかもわからない。

川端画学校での義父については書かれている書籍があったし、一関市の旧制一関中学の義父のことも、義父の従兄の息子さんから一関高校百周年記念誌のコピーを頂いたので少しは掴めた。

でも中央大学に関しては新聞記事にある応援団長や美術部のパレットを創った的なのしかわからないのだけど、残念ながら関東大震災と空襲で焼けた中央大学には一行も資料が残っていない。
この曖昧なままでは書き残せない的な。
中央大学には入学記録と卒業記録は残っているけどね。
。゚(゚´Д`゚)゚。

で、神田区錦町は今は千代田区なんだけど千代田区の図書館にもあまり大正時代の記録がない。
千代田区関東大震災と空襲で焼けたからね。

逆に焼けまくったけど浅草区は小説の題材になったりしているから、ある程度雰囲気は掴めると思っていたら、台東区も資料少ない。

谷中の熊谷登久平の遺品から出た長谷川利行のスケッチブックには浅草でのことが書かれているのと、熊谷登久平とその妻(内縁)も描かれている。
当時妻だった熊谷絹子と名乗っていた女性。
岩手県の千厩の日野屋、義父の実家の皆様や、義父が尊敬していた同じ家出身の熊谷伊助の直系家の方も同情をしているぐらい義父に尽くした彼女。
夫の記憶では彼女の葬式に血縁者も来たそうだけど、今はもう何もわからない。
彼女に関しては追うのは難しいだろうなと。
一関市の義父の従兄さんが持っておられる葉書だけが彼女の悲しみの痕跡だ。

あと、夫の母、私の義母、彼女の立場をとったことになっている義母の女義太夫時代の資料も写真しかない。
これは早稲田大学に運が良ければ資料があるかもと思いつつ、今の早稲田のオシャレ感に逃げ腰だ。
根津から直通バスが出ているのにね。