熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

長野県上田市にある #無言館 に行ってきました。

博物館などで戦中の調査を仕事にして、江戸東京博物館と足立区立郷土博物館に展示されている資料がB-29や空襲被害関係な私。
父の弟が16歳で戦場に輸送される途中で海の藻屑と消えたおかげさまで、生き残った罪悪感に苦しむ父が屈折して微妙な育ちとなった私。
女なのに戦記雑誌で仕事をしていた私。
絵を習っていた私。

一回は戦没画学生の遺作が展示されている無言館に行くべきだなと思いつつ、ずるずるとやっと本日JR東日本の大人の休日倶楽部のチケットを使って上田市に行きました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%80%E9%A4%A8

台風の被害の痕跡あちこちにある中、北陸新幹線上田駅に着き、乗り換えようとしたローカル線の上田鉄道別所線の鉄橋が折れてて振替バスに乗り、次の駅で別所線の列車に乗って塩田駅へ。
ガイドさんなのかな、ハーモニカの上手な方が童謡を奏でて年配の方たちが歌う企画と鉢合い、歌が好きだった母を思い出して少し寂しく。

窓から見える景色は美田と山並み、醜悪な太陽光パネル
荒れてしまっている空き家。

塩田駅からは事前に予約したタクシーに乗って無言館へ。
https://mugonkan.jp/
タクシーの運転手さんとの雑談で大河ドラマ真田丸の頃は物凄く忙しかったと。
うん、真田丸も面白かった。

無言館の展示はご遺族が守られていたままの状態で、傷んだものも多いが圧倒される。
義父が属していた独立美術協会でも戦死者は出ている。
画家として成功し始めていたものは戦争画家として戦場で死ぬものは死に、戦争画を拒んだものも戦場で死に、これから花が咲く若い画家たちも戦場で散り。

若い花咲く前の画家たちは遺族が大事にしていた思いとともに無言館に寄贈され展示されて、ここに残る。

この画家たちが生きて中堅となり指導層となって育てるはずだった層が育たず、指導者が足りてなかった若者は自由という言葉で暴走して潰れたケースも多いと私は思っている。

戦没画学生たちの絵を特集した美術雑誌の太陽を足立区立郷土博物館の安藤先生に見せて頂き衝撃を受けたのは戦後50年の頃か。
その後、無言館ができることになり、全国から集まった寄付金。
その浄財に税金がかかり無言館発進に赤信号。

そのニュースを見て手弁当で駆けつけ税務署と戦い無言館を救ったのが戦記好きなら名を知らぬものはいない占守島の戦いで、押し寄せたソ連軍と対峙し押し返した士魂部隊の池田隊長のご子息。
ご子息は成人し税理士になっておられ、粛々と合法的に無言館あての寄付金に税がかからないようにした。

池田税理士の父上、池田隊長の教え子には司馬遼太郎がいる。私が士魂部隊の生存者に取材に行くと先に司馬先生の痕跡があるものだった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

私が取材した士魂部隊の方々も今はなく、池田隊長のご子息が今年久しぶりにあった慰霊祭に参列されたのをニュースでみた。
戦友会の方々から話して頂いた池田隊長のご遺族が受けた戦後の過酷な生き様。
でも曲がらず立派なご子息だと戦友会の方々が褒めておられた。
そのご子息もすでに高齢だ。

無言館の館長である窪島誠一郎氏は1941年生まれ、東京大空襲で行方不明になっていた水上強氏の息子で、私が中学生の頃だかに水上氏と再会して話題となりドラマにもなった。うろ覚えだ。
その頃の記憶が強いので若いと思い込んでいたけど、先日窪島館長が倒れたと業界の片隅で聞いた。
それも今日無言館に行ったきっかけの一つ。
受付に座っておられてホッとしたけど、ご本人いわく状態はあまり良くないそうで。

まだ、発信していて欲しいと願い、祈ります。

無言館の図書室のコレクションはミリオタ向けと美術史があり、良い場所でした。

図書室で少し雑談をした方が帰りに上田駅まで送ってくださり助かりました。
お嬢様か美大を目指しておられるそうで、奥様とは大学時代に弦楽器同士という関係な、ミリ分と歴分とアニメと芸術分がある方で楽しかったです。
九大事件とか話しながら長野の水害地域のボランティアの話とか話題豊富でした。