10月2日から池之端画廊さんで上野近辺に住んでいた画家たち展をやる予定。もちろん義父の作品と義父と交流があった画家たちの作品も並ぶ予定。
足が攣る今日この頃。これも熱中症の症状だそうだ。
美味しい干し芋が食べたい。
あと、甘いとうもろこしに塩をかけたのも食べたい。
今日は広島に原爆が投下された日。
明智抄さんのお父様は即救援物資を背負って西条から向かった一人だけど、語らず、戦後随分だってから少し話したとか。
明智さんのアシスタントのお父様は三原の沖の島の生まれだが、広島市内に動員されていて被爆。
吾妻ひでおファンクラブしっぽがないの初代会長さんのお母さまも被爆者。かなりの至近距離。
義父のお弟子さんの太宰博邦さんは広島県警の特高課長で、報道統制をする側だった。
『報道統制は揺るがなかった。紙も墨汁もないなか,中国新聞の記者たちは7日,口伝隊を編成する23)。罹災者の応急救済方針や臨時傷病者の収容場所,救援食糧などの状況を口頭で伝えた24)。県警察部の太宰博邦特高課長からは「原子爆弾という名称は使用してはいけない。言語に出したものも処罰する」と申し渡された25)。ところが「ピカドン」26)という言葉が生まれ,たちまち広がる。太宰課長も「大衆はうまいことをいうものだ」と,この呼称は差し止めなかった。』
https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-46/
夫の幼馴染が米軍が撮影した呉港の大和の写真を送ってきてくれた。
F13による超高高度からの撮影かな?
30年前はまだ超高度に対して、事前に上空で待機されていた飛行機乗りの方々に話しを聞けたけど、恨み言もあったのを思い出す。
熊本でお世話になった方は訓練飛行中に呉空襲に遭遇し、片手を失っておられた。
https://www.city.musashino.lg.jp/heiwa_bunka_sports/furusatorekishikan/1047986.html
『かつて武蔵野市域に存在していた中島飛行機武蔵製作所は、昭和19年(1944)11月24日から9回にわたり米軍による空襲を受けました。
この空襲の中心となった戦略爆撃機B-29について、高高度を飛行する同機を地上から仰ぎ見た、墜落した同機を見に行った、など様々な証言が残っています。当館は新たに同機の製造過程を記録した米軍作成の映像資料を収集いたしました。本展示ではこれをもとに市民の記憶をひもときます。
B-29による空襲から80年を迎えた今年、本展示を通じ戦争の記録と記憶の継承にかかる課題について多くの方々と共有できれば幸いです。
展示構成
[1]中島飛行機武蔵製作所とは
中島飛行機による航空機用発動機工場の建設と東日本初のB-29爆撃について振り返る
[2]映像資料から見るB-29
新たに収集した米軍作成映画『Birth of the B-29』を素材にB-29の製造現場を見る
[3]市民の記憶に残るB-29
市民の記憶にあるB-29と、これに抗う市民の様々な戦争体験について知る
[4]戦争の記録を掘り起こす
戦争に関する記録の継承と、武蔵野ふるさと歴史館の役割について考える』