元々腰痛持ちな私は先週ぎっくり腰になった。
だいぶ良くなった感じだったが昨日の夜お好み焼きを作っていたら変な感じになり、今日、女性にありがちな優しくないお通じに少し頑張ったら再びドーンときた。
で、御不浄からなんとか部屋にたどり着き夫に泣き言電話をしたら爆笑され。
とても痛い。
明日は病院だがまたシニアカーで行くことになるね。
裏の東京大空襲慰霊碑と上野公園の慰霊碑には手を合わせに行くつもりだ。
東京大空襲を記録する会のメインメンバー最後の1人となった早乙女勝元先生の著作の中に『ターニャの日記』がある。
ソ連時代のレニングラード包囲戦の中の少女の話だ。
写真はWikipediaより。
↓
『サヴィチェフ家は死んだ
Савичевы умерли
みんな死んだ
Умерли все
残ったのはターニャだけ
Осталась одна Таня』
このレニングラード包囲戦でのターニャの日記を、戦争犯罪の証拠としてニュルンベルク裁判に提出した国がウクライナに対して何をしてるのだろう。
以下Wikipedia『レニングラード包囲戦』より。
『一方でレニングラードはドイツ軍の包囲下で市民が餓死する中、市内の兵器工場群をフル稼働させ大量の兵器を生産し兵器廠として機能し続けた。工場から出荷された兵器はレニングラード守備軍にはまわされず各戦線のソ連軍に供給された。1941年7月~12月だけで戦車500両、装甲車600両、野砲2400門、機関銃1万挺、砲弾300万発、ロケット砲3万発を出荷し独ソ戦の勝利に大きな貢献をはたした。』
これだけソ連に貢献したレニングラードの共産党幹部たちがレニングラード事件で粛清されていったのも皮肉な話だと私は思っている。