熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

谷中空襲の日

 

「みしま地蔵尊由来

台東区谷中三丁目七番一号

太平洋戦争下の昭和二十年三月四日午前八時四十分頃、小雪降る中に、谷中地区はB29 爆撃機の空襲を受け、死傷者約五百人、全半壊家屋約二百戸の被害を蒙むった。

戦争も終り昭和二十三年、当時の三崎町、初音町四丁目、真島町の有志により三ヶ町の戦災死者七十余名の霊を永久に供養するために地蔵尊が建立された。

みしま地蔵尊とは三ヶ町の町名からそれぞれ一字をとったもので(三四真地蔵)、かなで読みやすくした。

平成四年十一月 台東区教育委員会

 

この日の空襲の眞島町の爆音と被害を義父は見て慌てて山形への疎開を決めた。

夫が幼い頃まで立派な防空壕が我が家にもあったそうだが、直撃の被害を見た義父は逃げるが良いと判断したのだろう。陸海の航空機の計器を作る国策会社の東京航空計器の社員としての知識もあったろう。(設計図の青焼の裏面に描いたラフも現存する)

 

内縁の妻の衣子は家を守ると言って残ったそうだが。

 

 

谷中の空襲で凄いなと思うのは下から炎が迫ってきて、大名屋敷も燃えたのに向かいの彩美堂の留守宅を預かっていた木村さんたちが必死で消化活動をして、そこが並びのやけ止まりになったことだ。覚えている人はどんどん亡くなっているが……

宗善寺の墓地に空襲被害者の遺体が纏めて埋葬され、戦後に掘り起こした時に頭蓋骨が沢山出てきた話しも聞いた。

谷中の寺にはいくつか、空襲被害者を埋葬したという伝承があるが、代がかわり詳細はもうわからない。

 

上野公園に累々と東京大空襲の遺体が集められて埋められたのは戦後の航空写真である程度追え、早乙女先生たちが調べていたけど。

 

 

 

 

 

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よみせ通りの九州堂のソフトクリームはとても美味しい。
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