熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

松本零士先生の訃報

夫は今日も朝から大変だ。文章作成を手伝おうかと言ったら、元になる箇条書きすら凄く時間がかかっていて、私は物書き女房なのだから簡単なの渡してくれたら口頭でも書けるのに。

 

 

ネットニュースで松本零士先生の訃報が流れた。

心不全だとか。

私は思春期に宇宙戦艦ヤマトに夢中になり、先生の「戦場まんがシリーズ」を読み、その中に描かれていた撃墜されたB-29の搭乗員の遺体が受ける行為と、それを見た日本軍の飛行機乗りの言葉がとても印象に残って今に至っている。

また、宇宙戦艦ヤマト繋がりでキャプテンハーロックが掲載されていたエッチな漫画雑誌のプレイコミックを購読するようになり、吾妻ひでおのやけくそな展開な漫画に惹かれてファンクラブに入った。

月刊OUT宇宙戦艦ヤマト特集をやったことでOUTを定期購読するようになり、明智抄たちとの交流にも繋がった。

上京し、墜落、撃墜されたB-29関係を調べていく過程で早乙女勝元先生のお手伝いもするようになり、B-29の墜落を書いたエッセイが入選し、戦記雑誌丸の別冊での連載も決まった。

その別冊丸の編集後記に担当さんが仲村明子は宇宙戦艦ヤマトのファンから始まり的なことを書き、それを読んだ松本零士先生が編集部に連絡し、私に連絡をくださり、ご自宅に招いてくださった。

宇宙戦艦ヤマトがきっかけでキャプテンハーロックが連載されていたプレイコミックを購読するようになった女子中学生は沢山いて、その中の一人としてお会いできた。

その頃内緒の話のゲーム開発のこととか、それが完成してからの色々や。

インターネットを使っての漫画連載も初めておられた頃か。

それをSMスナイパーの編集部でダウンロードして、野田昌宏先生との打ち合わせ場に持って行ったのも懐かしい思い出だ。

軟派硬派の仕事を掛け持つ私を面白がっておられた。

宇宙戦艦ヤマトの裁判の話しや。

オフレコだらけの楽しい電話もよくいただいた。

 

 

叙勲された時の帝国ホテルのパーティで樽酒の鏡割があり、その時に使われた小槌を先生はくださった。

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ワインをくださったり、時計をくださったり、頂いてばかりだった。

今夫との出会いも宇宙戦艦ヤマト繋がりだし、今夫が昔使ったペンネームはトチローで松本零士先生のキャラクターの名前だ。

 

 

私が橋本病を発病していると気付かず、若年層アルツハイマーになったと思い込み、またアルツハイマーの母の介護で引きこもりになり、呂律が回らなくなったことを恥じ、電話番号も変えた。多くの人に不義理を重ねた。

 

私も還暦となったが、訃報にはいまだに慣れない。

 

ひたすら寂しい。

 

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