母が亡くなり、母宅を片付けて鍵を都営住宅に返し介護ロスで放心していた時に東日本大震災がきた。
戦争記録関係の本棚は崩れた。
夜間大学に通っていた娘は精米機のある食品加工の工場で働いていて、息子は門前仲町の印刷工場で働いていた。
娘は帰ってきたが、息子には連絡がつかず気が狂いそうだった。
息子は夜明けに徒歩で帰宅した。
娘は工場に呼ばれて片付けに入り、精米途中で部品が折れ商品では使えなくなった米を沢山持ち帰ってきた。その米のおかげでかなり助かった。
私は母が戦争と震災と伊勢湾台風の大潮被害にあった名古屋の人だったので、ある程度の備蓄の習慣がある家で育った。
そして父の生家で父の嫡子が住む家は神戸市の長田にあり、阪神淡路大震災で潰れて、私の母校は須磨の浦にあったので鉄筋コンクリートの校舎が見事に潰れた。
水道も止まり父は幼馴染のお父様が閉じ込められたまま焼死されたことを悔いていた。
また嫡子と孫たちが家をなくして車中泊をしていることを心配していたが、嫡子たちからは私を作ったことを許されておらず微妙な距離なのも嘆いていた。
父の母校の二葉小学校は少年Hのロケにも使われたモダンな建物で校庭も都会にしては狭くなかったが被災者を受け入れるには足らなかった。
その後父は水の備蓄と缶詰やレトルトの備蓄を今までより増やすよううるさく言った。
また車はワゴンタイプにかえるよう言ってきた。
子どもたちにテントで寝られるようキャンプには積極的に通うよう言ってきた。
大きなテントの中に小さなテントをはる、大きなブルーシートの備蓄を人数分、使い捨て懐炉だのなんだの言ってきた。
阪神淡路大震災の一周忌のあと父は倒れて5月に死んだ。
あのうざいぐらいの備蓄の蘊蓄で溜め込んでいたものや、充電池などが東日本大震災のあとスーパーでものが消えたあとに役に立った。
娘は職場で被災地に送るオニギリを作り続けていた。
今夫が町会役員をしているので、私もたまに役員会に出席している。
今年は災害があった時にトイレにセットする使い捨ての非常時用のセットを町会員に配ることになった。