熊本市電の終着駅がある健軍には昔熊本空港があったけど、それ旧陸軍の施設でそこから沖縄に向かった義烈空挺隊が強烈に私には紐付いている。
とか、下駄履き特攻の天草海軍航空隊やら戦記雑誌丸の記者として熊本には随分と通った。
今の若いミリタリーの人々は私がやっていたオーラルヒストリーを馬鹿にすることが多く、私が健軍を知ったのは赤本の沖縄だと言ったら露骨に馬鹿にするだろう。
ので、戦記界隈には近寄らないが、私が通っていた頃はまだ軍事施設の痕跡があちこちにあり、当事者たちに案内して頂いたものだ。
その頃、別口の取材で熊本の民話なども調べた。
人吉市も勿論行った。
https://www.nag.co.jp/sekainokumamoto/05/index.html
古くからの建造物が残る地域で、寺の欄間の造りも美しく豊かな地域だったのだろうと思ってはいた。
殿様が焼いた回転焼きの話とか戦後の荒波や洪水なども聞いて回ったが、のちの再婚先の熊谷家縁の土地であったのも不思議な話で。
戦前、人吉にあった旅館古城に義父の熊谷登久平は滞在しその美しさと楽しさを随筆に残している。
その古城の後継の宮崎精一氏が義父の友人であった。
宮崎氏も義父のことを書き残しており、その甥は義父の弟子となり、夫に古城での義父の話を伝えている。
古城には義父だけでなく、人吉に惹かれた洋画家たちが次々と泊まり作品を残していたらしい。
その中に義父の作品もあった。のは写真で確認している。
宮崎精一氏は成功した画家で熊本県の美術教育にも功績を残しているが、忘れられ始めている。
このままでは義父の二の舞になると思い私なりに調べて問い合わせて、人吉市に作品がかなり残っているのは今日わかった。
それを宮崎氏のことも調べている美学の学芸員に伝えて、弟子筋もまだご存命なことを伝えた。
オーラルヒストリーを若手の研究者は馬鹿にする傾向があるが、インターネットでなんでも調べらるわけがない。少なくとも今は。
去年、多摩美で美学を教えている方に、つまり美大の若い教員に私の無教養を馬鹿にされたが、ついでに独立美術協会の絹谷先生のことも馬鹿にしてたが、書物で調べることも大事だけど現場を調べることも私は必要だと思う。
今、私が調べている人吉の画壇たちを直に知る方々は既に高齢で、30年前の書籍には当たり前のように書かれていたある先生の日記も所在不明だ。
戦前の人吉の芸術や技術のパトロンだった大判焼きの殿様が持っていた資料も、古文書は大学や博物館にあるらしいが、近代以降の美術品はどうやら個人が購入したらしく追跡ができない。
せめて古城の画壇たち戦前戦後の動きぐらいは追えないかとバタバタしている。
義父が恋しく語った人吉の情景は本当に美しい。
で、義父が描いたニコライ堂は複数あるが、人吉の美術史に載る作品はどこに行ったのだろう。
色紙は人吉の古城にあったそうで目撃談も今回得られた。
https://www.sankei.com/region/amp/170607/rgn1706070007-a.html