熊本県の人吉の洋画家の宮崎精一氏は日記をつけておられて、それを元に生前作成された年表に戦時中熊谷登久平の世話で谷中の初音町に住んだことが記録されている。
そこに記されている熊谷の家は、今私が住んでいる敷地にあった屋敷で、そこには義父の師匠の里見勝蔵氏もいらして語らったとある。
里見勝蔵氏は沢山文章を書き残していて、長谷川利行と熊谷登久平が初めてご自宅を訪ねた日に飲んだくれた文は良く目にする。
登久平への追悼文も書いてくださっている。
独立美術協会で里見氏を外そうとした派閥と里見派の登久平たちが乱闘した頃の資料は一つしか見つけていないし、そのエピソードが出た元が見つからない。
この時代に谷中周辺に住んでいた画家は多いはずだが、なかなか具体的な資料が見つけられない。
雑誌のバックナンバーを片っ端から調べる予定だったが、コロナ禍で動きにくいまま焦れている。
要領が悪い。