義父、熊谷登久平が昭和16年に出した書籍に、勝海舟と親しかった熊谷伊助のことが書いてあり、私は色々調べているが、勝海舟が(遺体を)抱いて泣きくれたのは行徳出身の女なのか、熊谷登久平の曾祖父さんの兄の伊助なのか。
女だったら勝海舟の女遍歴に新たなる一人が加わり、それはそれで面白いし、大田区にできる勝海舟記念館で多いに取り上げてくれたら良いと思う。
なので私は女だとした市川市の女性作家さんに「初出は何処にありましたか」と、教えを請いたい。
立て看板を出している寺のご住職夫妻が行徳にきた40年前にワザワザ寺を訪ねて女の存在を語った郷土史家。
その30年前に商業誌で熊谷伊助を思った歌碑と書いた義父。
どちらが正しいのかな。
女性作家は伊助と登久平の地元、岩手県でも講演会をしているが、市川市に碑があるはずの伊助のことは一言も話していない。
だが、市川市の文学を紹介している書籍の中には女性作家を紹介している頁と、勝海舟が伊助を偲んだ歌碑を紹介しているカラー写真が同居している。
それは女性作家の岩手県での講演の前に発行されている。史談なのにだ。
地域史を語りながら自説と異なることが書かれている行政が予算を出した書籍を読んでおられないのか、読まれた場合は自説に疑問を持ち調べるのが史家ではないのかとか、モヤモヤしつつ、私は熊谷伊助と登久平の生家を訪ねて、お寺さんに伊助の碑として認めてもらえるように努力だけはするつもりだ。
義父が誇り高く書いている血族の伊助。
その子孫が義父の葬儀に来ていたのは確認済み。
義父の甥で園遊会に招かれたこともあり、地元のロータリークラブ会長も勤めた英三さんも、碑をおまいりしたとたと聞く。
英三さんが大切にしていたと聞く勝海舟の碑の拓本。
その拓本が残っていたら嬉しいな。
だって勝海舟が抱いて泣き崩れた親友なんて、凄いことだもの。
義父は息子の嫁に手遅れだ腐っていやがるタイプがくるとは想像していなかったろう。
伊助と同じ遺伝子をもつ御次男の嫁はキフジンです。
とてもキフジンです。
忍ぶれど滲み出す、ダダ漏れのキフジンで、一滴あればご飯を何倍も食べられる省エネタイプの自家発電型で、小説JUNEで連載を持ち、戦記雑誌丸で連載を持ち、アンジェリークラブラブ通信で連載を持っていたキフジンです。
NHKや朝日新聞や星条旗新聞でも遊んでいたキフジンで、あると思ったら出るまで掘るオンナと呆れられていたモブでございますのよ。
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