熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ 長谷川利行と私 機械読み取り あとで直す 

 

を取らうといふの空質環に私の世の作つた者物、主織、補や、長谷川が彼の父かおおくられた"たつた一枚の新羽線上庭の白師とをもつて行って、一助
五十錢の微大料下合計二人四十配の搬人料金二十面なとられたことがあった。勿画二人とも感識した。荷車をかりて尻はしよりて搬入して。 国在料理料金退
せといふのや大調和期に出かけて、一配とういぶ職意したからら かけあつた" が結局二十四日かへつく来なかった二人は きの素物がないのでいので、ブルース用の古洋服をきてふるへてゐたものであつた。
墓と塔のある上野の山のおく、ここは若い長谷川にも私にも巴里の連中のやうに、モン・マルトルであつた。この私達のグループのために、ル・カボーといふ酒場が東京モン・マルトルにつくられた。この酒場が、私達に呑み倒されまでの一年間ほど私達にとつて幸福なことはかつてなかつたであらう。
長谷川利行のことについては多くの物語がある。そして彼のやうな天才を容れ得ない島國根性的日太畫壇の存在は賞に笑止千萬であると思ふ。
もし長谷川が巴里に生れて思ったなら、ルクサンプルあたりに説のガランスとエメラルドの光り輝く繪が彼の短かい人生を永久に物語るやらに掛けられたであらう。

この惨めな日本に生まれ合はしたばかりに長谷川は彼の天才を搾取されて、救世軍の行路病者として収容され、逃げ出して慈善病院に、再び市の施療病院に取容され、あへなくもただ一人、兄弟にも友人にもあはず死んで行った。
砂糖と煙草が欲しいといつてゐたきうであつた。
コスモスの咲く草原に、からだをうもつけるやうにひつくりかへつて、空を眺めてるたといふことである。
彼はきつと、十年まへ燦然と寶玉の如く、産みだした彼の作品を、パンのために、二束三文に売り払っていた彼の作品の行衛を考べていたのであろう。
私は彼のエメラルドの繪をいまも大切に秘蔵してゐる。

 

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