何回か書いてるけど、義父の熊谷登久平は戦争画を描きたくなく、そして従軍画家になりたくなくて、国策会社の東京航空計器に入社した。
が、軍装の人物画、落下傘部隊の訓練風景も描き残している。
先日元担当さんに、「(小学館)の編集長とはたまに逗子駅まで一緒になり、何度か従軍画家だったお父様の話を聞いたが詳しく聞けないうちに京都に行ってしまわれた、そして元担当さんも京都に行ってしまった」と愚痴った。
あの頃、なぜ編集長にお父様のことを詳しく聞かなかったのだろうと亡くなられてから後悔している。
戦前戦中に画家が戦争画や従軍するのは時代の流れだし、画材も上に協力しないと手に入らない時代になっていった。
裕福だった義父も絵の具の使いが薄くなっている。
義父は翼賛的な絵を描かなかったが、発表する為の工夫はした。香取神宮と鹿島神宮はその為の絵だ。
戦時中は展覧会の作品を選ぶ場に軍人がついて見ていたと独立美術協会の資料にもある。
戦争画は有名なのが表に出るが、従軍画家として亡くなった人たち、学徒動員で散った画学生たちに脚光があたるのは高度成長期が終わった頃か。
でも敗戦が決まったあと上野の山の美學で切腹した元画学生がいたことは、わたなべまさこ先生の著述で私は知ったが詳しいことはまだ調べてない。
戦争は語るのがとても難しい。