熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

昭和19年 戦時下最後の独立展 メモ 熊谷登久平

左胸からわきにかけての激痛が痛く、カロナール4錠飲んで数時間が稼働時間なので辛い。

かつては名医が診てくださった上野桜木の藤本クリニックの整形外科は今はガチャだし。結構困っている。

 

以下、以前書いた日記のほんのり加筆です。

 

昭和19年2月23日〜3月15日 東京都美術館にて開催。
『本展は例年出品者中より会員の推薦により出品す。
独 立 賞
橋本 春光  西田藤次郎  池島勘治郎
宮崎 精一  久保 一雄
昭和19年12月 会員清水登之 死去。/独立美術協会のサイトより引用』

 

清水登之は独立美術協会の結成会員で、戦場画家として南方を駆け巡った人。昭和20年6月に長男・育夫の戦死を知り終戦直後の12月に死去。の記述がWikiにあり、独立のサイトとは年代が違う。栃木県立美術館では1945年2月となっている。

美術年鑑社の20世紀物故洋画家事典では1945年12月7日。

バラバラじゃん。

 

https://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/maa/yasukuni/yasukuni_s18a_026.html

 

私は元戦記ライターでもあったので、清水登之も気になっている画家であった。なので、晩年の作品を持っている。

「海辺風景」 と売られていた水彩画 の裏には気に入らなかったと思われる絵があり、それも私には面白かった。

清水登之 クラスでも画材が足りなかったのかと思ったものだ。

義父が疎開先に持っていった長谷川利行の作品の上に絵を描いたことをずっと後悔していたが清水登之 でも裏に描くのだもの。義父により長谷川利行の一作品が失われたのは惜しいけど、時代かと。

清水登之の長男は戦死をしている。

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http://www.kiryu.co.jp/ohkawamuseum/kikakuten/43-sorezoresensou/Default_copy(3).htm

『もっと描きたかった 戦地望んだ従軍画家の失意と絶筆/朝日新聞 中村尚徳2020/8/31』

https://www.asahi.com/sp/articles/ASN8X4D7SN8LUUHB003.html

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戦死画家で義父が衝撃を受けたのは島崎藤村の次男・鶏二(1907年 - 1944年)であったと聞いている。ボルネオ島で亡くなられた。

川端画学校に同時期に通い、登久平と交流があった林文雄とも交流があった人だ。

 

独立美術の戦争画といえば私は田中佐一郎も思い浮かぶが、田中画伯の戦場でのスケッチが大量にヤフオクでたことがあり、2枚だけ落札できた。

多分画伯の奥様が手放したときのものだろうけれど、入手された方に連絡を取ると義父の作品で私が欲しかった絵も手放された後で地団駄ものだった。

 

また、独立美術の、北支派遣牛嶋部隊本部付従軍画家の加納辰夫/莞蕾(らんかい)を忘れてはいけない。

戦犯記録を調べたことがある人なら、あっと思い浮かぶ画家だ。

以下Wikiより抜粋

『加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年3月1日 - 1977年8月15日)は、日本の画家、政治家。本名辰夫。莞蕾は雅号。島根県能義郡布部村(現在の安来市広瀬町布部)出身。マニラ軍事裁判により戦後フィリピンの刑務所に収容されていた日本人戦犯の釈放に尽力したことで知られる。』

 

 

https://www.art-kano.jp/kanrai/

 

 

義父は戦争画から逃げたが、この時代の公募展には陸軍の監査が入っていたと私は聞いている。また、独立美術は戦争画を推奨していなかったので描けたと義父が言っていたそうだが、詳細は不明である。しかし、義父が昭和19年に描いた作品は時代色がとても強く、私はあえて戦争画と言い120周年展でもそう説明した。

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以下、日本美術年鑑 昭和19年・20年・21年版より抜粋。国会図書館デジタルアーカイブより。

『第十四回獨立美術協会展 2月23日から3月15日都美術館
東朝 資材の質的低下が著しく目についく。

顔料の発色の悪さが、会場をどんよりした空気で包んでいる。

画面の汚れてゆくのは作家の罪ではないかも知れないが、こういう時代には、新しい構想や主題でこの困難を他へ転換すべきだろう。
少くとも今日は、綺麗な画面の装飾的効果等を気にして筆をとる時ではない。もつと大胆に主題と取組む必要がある。
農村や漁村の生活を扱ったものに佳作がある。 秋の収穫期を描いた斎藤長三、富寅の雪國の人々、居串佳一の北海漁猟などは量質ともに優良の方で、沈滞した会場は、これら三人の活動で幾分か引き締まったようにみえる。
その他は熊谷登久平の香取、鹿島、宮崎精一の霧島山など神域を題材としたものや、山道栄助の早朝鍛錬がやや見るべきであり、主題面ではないが菅野圭介の山村冬日、長島常吉の雪の山村など目立つ部類である。
上層部の会員は概して不活発である。児島善三郎の三点中では池畔風景が注目されるだけであり、須田國太郎の石組習作も格別のことはない。鈴木保徳の海景や野口弥太郎の小品も色感の良さはあるが、これも上乗の作とはいえない。
この級の会員では中山巍の小品三点と、清水登之の二点が秀作で、それらはいずれも南方を主題としたもの、技術もかなりしつかりしている。/日本美術年鑑 昭和19年・20年・21年版』

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この美術年鑑の中では無記名だつたが、義父のスクラッチブックの中に同じ記事があり、署名があった。荒城李夫、

昭和12年にアトリエ社から近代美術思潮講座 全6冊が出版されているが、その執筆陣の1人だ。
 「近代美術思潮講座/荒城季夫/伊原宇三郎夫/福澤一郎/神原泰/長谷川二郎/相良徳三

昭12年/アトリエ社 」

新聞の人気漫画のフクチャンが疎開をするお別れをしていて、時代が痛い。

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またこの書籍中、昭和19年の戦時特別文展の項目、出品作の中に熊谷登久平「潮来朝霧」の文字があった。登久平の生家、一関市千厩の熊谷美術館(本家)が所蔵している。茶色の絵の具が主流だ。

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この時代、画家が画材を入手するには時代にじゅんずるしかなく、国の方針に沿った絵を描かないと絵の具の入手どころか当局に捕まることさえあった。

絵の具が欲しくて探し回ったエピソードを上野桜木の佛雲堂の浅尾丁策さんも書き残している。

そんな時代の展覧会評に絵の具にかこつけて暗いと書いた記者は無記名。

時代だ。

 

登久平らがこの時に使った茶色の絵の具については以下のサイトの 足立元氏執筆の「日本美術及工芸統制協会・日本美術報国会」に詳しい。

https://artscape.jp/artword/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%8A%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E7%B5%B1%E5%88%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A

以下抜粋

『洋画家、日本画家、彫刻家、工芸家たちはそれぞれ自主規制のための翼賛的な団体を組織して、制作のための資材の確保に努めていたが、43年5月に日本美術及工芸統制協会(美統)と日本美術報国会(美報)の二つの組織に集約された。美統は美術制作資材の統制を行なうものであり、美報は前年に組織された文学報国会に倣ったものであるが、両者は表裏一体の組織として戦争美術の振興すなわち「彩管(=絵具)報国」に貢献した。美術家は、これらの組織に加入しなければ作品制作のための資材配給を得られないという事態になっていた。表現としては、当時耐久性において信頼のおける絵具が茶系色に限られた。そのために藤田嗣治戦争画に茶系色が多用され、そのほか多くの戦争画にも同様の茶系のモノクローム絵画が増えたといわれる。』

抜粋終わり。

 

以下

https://bijutsutecho.com/artwiki/73 より抜粋

 

『ART WIKI
戦争画
War Paintings
 
 戦争を題材とする絵画群。その制作は、日中戦争からアジア太平洋戦争期にかけて本格化した。戦闘場面、兵士、戦艦などを大画面に写実的に描いたものが中心だが、戦争を直接の主題としない作品群も含められることがある。例えば過去の合戦や国史を主題とする歴史画、出征した父が不在の家族像を描いた「銃後」の作品、占領地の情景など。媒体は洋画が多い。他方、日本画のうちには国威を示唆する旭日、富士山などを描いた象徴的な意味による戦争画が存在する。』

『39年には従軍画家の数が200名を超え、この頃から軍の委嘱による公式の戦争画が「作戦記録画」と呼ばれるようになった。』

 

この戦争記録画家になったことを戦後苦しみ、自死に至る、ある銭湯絵画家が出てくるフィクションが洋画家・司修(つかさおさむ)が書いた『赤羽モンパルナス』に収録されている。

 

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赤羽の団地が建て替えられる時に、この小説に書かれたことの検証もされたようだ。

https://www.ur-net.go.jp/rd_portal/urbandesign/event/compe2021/webinaritoh.html

「団地に込められた設計者の想い
伊藤 功氏(千葉大学客員准教授/窓建コンサルタント)」

『また昭和50年代頃の赤羽のイメージとして、赤羽モンマルトルという本があります。これは戦前から池袋周辺に芸術家アトリエが多数あり池袋モンパルナスと呼ばれたことにちなんで、赤羽も画家などが集まったことから、赤羽モンマルトルと称したと言われております。赤羽の建替えに際して、赤羽のイメージの参考資料として、モンマルトルと赤羽を比較がなされ、都心の北はずれで川(セーヌ・荒川)があり、高台、文化人、タワー(サクレクール寺院・スターハウス)があるなど、類似点が整理されました。』

 

豊島区、板橋区練馬区、世田谷区とか自区に住んだ画家たちの追跡を結構やっていて、北区も赤羽モンパルナス展を開催したことがあるのに、江戸時代から画家が多く住み、大正時代の新聞記事に芸術家が多く住むと書かれた上野の森周辺について調査をしていない台東区が残念すぎる。

 

参考として芸術が統制されていく時代の記事を熊谷登久平のスクラップブックから。

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