義父の遺品、長谷川利行のスケッチブックの中には楽しげな仲間内ネタの詩や家の間取り図がある。
義父と同世代の洋画家の田崎広助氏の御子息が書いた小説の中に、義父の熊谷登久平と長谷川利行たちが皆でワイワイと一緒に住む家の間取りを描いているシーンがあった。
後書きを読むと当時を知る画家たちに取材したとあった。
それを読んだ私は田崎広助美術館に連絡をした。暘之助さんと連絡を取れないかと。
残念ながら暘之助さんも亡くなられており野ざらしの詩を書いた当時の話を聞くことができなかった。
昭和55年に発売された長谷川利行画集に暘之助さんの取材時の手記が載っているとしり、書籍を随分と探したが見つからず、コロナ禍なので他地区の図書館も使いにくく。
ありがたいことにお持ちの方から手記をコピーして送っていただけた。
当時を知る方や長谷川利行の姪子さんとのやり取りも知れた。
『田崎暘之助 「野ざらしの詩」の周辺 取材日記から』抜粋。
『父を訪ねてきた男』
昭和十二年ころであったろうと思う。私はもちろん小学生であった。練馬に父(田崎広助)が家を新築して間もなくであった。ある夕方、奇妙な男が家を訪ねてきた。穢い服装をしていて、一見、どうみても普通の男でない。その男は、小わきにかかえていた画帳や、油絵の小品を紐で束ねていたように思う。
「○○までどうしても帰らねばならない。いくらで でもいいから、その中の絵でも画帳でも買って下さい」
と言いながら、男は、頑丈な体駆を玄関の床のうえにどっかと据えてしまった。女中が騒ぐので、子供の私まで物珍しいものを見る思いで、玄関へ出た。
穢い服装の男は、異様な迫力でそこへ座っていた。』
「いや、才能を育てるとか世間をうまく渡るとかは一流二流の評価とはおのずと違うのではないか。結局、その画家が死んで五十年たってみて、名前が残り歴史の中になにかの大きさで残る事実で評価が決まる。利行死後四十年の今日、利行が見直されている事実を考えて評価すべきだ。一流か二流かは、今後十年が勝負じゃないのか。しかもぼくの考えでは、利行の声価は、今後の十年でさらに大きくなるのでないかと確信する」
『長谷川利行画集』
昭和55年6月10日発行
編集 長谷川利行画集刊行委員会
発行 株式会社 共和出版
販売 株式会社 大和書房